虚空蔵菩薩求聞持法。虚空蔵菩薩の真言を100万返唱える。弘法大師が、奈良東大寺の勤操より伝授され、四国の山中や室戸岬の洞窟などで修行した。真言を唱えると谷が響きわたり、明けの明星が口に飛び込んだという。弘法大師の最も重要な神秘的体験である。根来寺を始めた興教大師も求聞持法を修行している。成就したとき、無数の佛菩薩が地より湧出したという。まじめに修行して成就したということで、高野の生臭坊主に強烈に嫉まれた。
  現在、高野山で求聞持法を修行する者は年間一人か二人位はいるであろうか。連綿と受け継がれている。比叡山では回峯行の堂入とか、好相行の開白の時のような最重要の修行の時、座主がきちんと立ち会う。加行の開白の時などは代理の法会部長などになる。それが高野山では、私が知る限りではそういうことは聞かない。求聞持の開白などにも立ち会わない。勝手に修行しているような感じになる。やや、趣が違う。求聞持を成就したとされているのは、歴史上そう何人もいない。現今行われている方法でも、50日間、一日8時間位真言を唱え続ける大変な修行である。思い立ったらできるというような簡単なものではない。ちょっと扱いが不当なような気もするが、弘法大師も山中で人知れず修行したように、一切のしがらみから離れてするのがいいのかもしれぬ。
  なんの為に求聞持をするかというと、記憶力が増すからだという事が言われている。奈良時代、官僧になるには、課題に与えられた経典を丸暗記しなければならなかった。記憶力を増進させる秘法が求聞持法だということになっていた。しかし、これは全くの認識不足である。密教の修行をする者が必ずしなければならない修行が求聞持法だというのが本当だろう。加行の前行であると言ってもよい。なぜか。胎蔵曼陀羅をよくご覧頂きたい。正面の入口の所にいる菩薩はどなたか。虚空蔵菩薩である。その次が般若菩薩、そして大日如来となる。弘法大師が心経秘鍵で般若菩薩を供養すべしと言っているのは、思いつきではない。求聞持法、般若菩薩の供養、そして大日如来にたどり着くのである。象徴的な意味が込められている。あれだけ弘法大師が重要だと指摘しているのに、求聞持の次に般若菩薩の供養をしたというのを聞かぬ。曼陀羅の意義を思って頂きたい。

東門 拡大図


西門 拡大図


 長保寺では江戸時代、天台の四度加行が行われていた。加行の前行に文殊五洛叉法を修行することが決められていた。文殊菩薩の真言50万返を一週間で唱えなければならない。高野山でも昔は求聞持法と文殊五洛叉法両方が修されていたという。天台で文殊菩薩を先ず供養するのは、法華経が弥勒菩薩の問いに文殊菩薩が答えて始まるせいもあると思う。法華経の終わりには普賢菩薩が登場する。これはこれで、深い象徴的意味が込められている。
  さて、ここでもう一度胎蔵曼陀羅をよくご覧頂きたい。曼陀羅の上にも実は門が開いている。入口は上下2カ所である。上の入口におられるのは、文殊菩薩である。次に釈迦如来。次に、空・無想・無願の一切遍智院、そして大日如来となる。
  深秘。深秘。これを思うべし。曼陀羅を飾って拝めばいい、ということでは十分でないことを知るべきである。



98/10/28

 


 徳川家が差別を作った、という説がある。そうかもしれぬと思う。あるいは、元々あった差別感情を支配に利用したとも言える。ただ、ここで一つ反論したい。士農工商の頂点の紀州徳川家の歴代藩主は、藩祖の南龍公から江戸時代ずっと、一人残らず側室の子なのである。皆様もご存じの、八代将軍吉宗も側室の子である。父親は2代藩主光貞、母親は実は素性が知れない人である。先ず名前を、「お百合」とも「お紋」ともいう説があり、よくわからない。町医者の娘という説、百姓の子という説、西国遍路の行き倒れの子という説もある。つなげて考えれば、どこかの食い詰めた百姓女が土地を捨て娘を連れ遍路に出て行き倒れた、それを親切な町医者が看病したが亡くなった、残された子を養女にした、美しく育った娘がお城に上がった、というあたりか。光貞という人は、そういう事情の人を寵愛して子をなした。それが吉宗である。差別のどうのというこだわりは微塵もない。吉宗は、そのままスルスルと将軍になる。どこにも差別はない。
  紀州藩では、正妻となる人は大体皇族である。でなければ将軍家の姫君である。この人たちは、江戸屋敷に住んでいて、子をつくらない。藩主の母となる側室達の出身は様々である。あまり知られていないが、紀州藩の江戸屋敷にも大奥があった。正妻を御簾中(ごれんちゅう)様といい、子を産んだ側室を御部屋(おへや)様という。江戸城と同じ、老女という役職もあった。御簾中様達は、いわば徳川家の格式を示す飾り物の様な立場だったかもしれぬ。
  長保寺には紀州徳川家の廟所があるが、御簾中様の廟所は藩主達の廟所のある山の中にある。全部あるわけではない。別の寺にある場合もある。お部屋様はというと、この山の外に墓がある。これも全部あるわけではない。自分の子である藩主が先に亡くなった場合など、里に帰される場合もあった。藩主の母でありながら、どこに墓があるのか分からない場合も珍しくない。ここらあたりは、全くの差別である。実は、大河ドラマがあった時、NHKが吉宗の母の墓を探した。結局見つからなかった。記録では江戸にあるということだったが、明治政府の徳川家対応策の一環で墓所が縮小された際、恐らくは破壊されてそのままになった様である。
  徳川家は、身分差別の最後のしわ寄せを家庭に持ち込んでいたともいえる。身分差別によって成り立つ社会が、その頂点に立つ者すら凍り付かせていた。殿様は無罪だと言いたい。吉宗は将軍になったが、母親の墓は失われて無いのである。吉宗の胸中を思って頂きたい。藩主に差別の心が無くても、家臣団や取り巻きが差別をするのである。中心になる人物と、その取り巻きは、分けて観察する必要があるということを言いたい。



98/10/24


 高野山にいる時、真別所という修行道場の監督を1年間務めた。短い期間だったが、全部で150名以上の行者のお世話をさせていただいた。これだけ数があると、まれに全くの聖者のようなお方に出会うが、とんでもない極道もいる。色々な行者を、口やかましく指導せずほとんどほったらかしにしていても、最後には皆、目一杯真剣に修行するようになってくる。仏教の修行の中には感動がある。これが、わかって来るからだと思う。
  冬、雪に埋もれた滝で、氷を割って滝行をする。毎日入る者もいる。これが5分経っても、10分経っても、戻ってこない。30分程して帰ってきたので聞けば、身体が寒さでしびれて動けなくなり滝から出てこれなくなったと平然として言う。1週間断食する者、無言行をする者など様々である。冬の高野山は氷点下17,8度になることも珍しくない。、仏器に入れた水は30分もすればカチンカチンの氷になる。それが、一冬電気コタツもアンカも無く、火の気無しで過ごした者もあった。
  よく、「在家出身の子のほうが、まじめに修行するでしょう」と言われた。ある程度そうかもしれぬと思う。平均してよくやる。私も在家出身である。しかし、私が経験した限りで言えば、ずば抜けた奴はやはり寺の子である。小さい頃から親のやることを見ているのだから、その気になれば良く出来てあたりまえかもしれぬ。ただ問題は、なかなかその気にならないことである。寺の良い面も知っていれば、悪い面も知っているせいか、先が見えてしまって興ざめするのかもしれぬ。その点、在家の子は最初からやる気はある。ただし、仏縁があるようで無い。懸命に修行した者でも、住職にまでなる者は半数位だろうか。別に住職にならなくても信仰はできる。全くなんの差し支えもないせいもある。在家から住職になるとしたら、寺に跡取りが無くて、養子に入るケースがほんどだと思う。私も、高野山で得度した時、養子に行くように釘をさされた。これは、宗教とか信仰とかとは全く別の問題であり、興味も無かったし、いやだった。しかし、結局、真言ではなくて天台に養子に行くことになった。仏縁があったのだと思っている。
  現代では寺院のありかたが世俗化して、たいていは寺の息子が跡取りとなる。私なりの結論を言えば、良い面が多いと思う。自然だし、温もりがある。愚痴を言っていても、やっぱり一生懸命やるようになる。ただし、在家から来た観点から言えば、一途に修行する者の道が開けてこないきらいがある。日本はこれだけ豊かになったのに、逆に、悠々と修行する者の居場所が無い。既成宗教は、この点を真剣に考えていない。
  精神的価値を求めることに特別の興味を持っている者は、以外と多い。ただ、カルトや新興宗教にいってはいけない。とどのつまり、何かに利用され踏み台にされるだけだ。といって、既成宗教にはなかなか受け皿がない。寺を立派にするだけが宗教ではないだろうに。どこかが脱線している。

98/10/23


 住職をしていると、実に様々な事を質問される。
線香は何本立てるのが本当か?
お仏壇のご先祖様のお膳は、毎日どのような献立にするのか?
位牌がいくつもあるが、古い方の位牌はどちらに置くのか?
葬式の時、焼香は何回するのが本当か?
どんな戒名が適当か?
お布施は幾ら位包むのか?
等々。実はこれらの、身近で具体的な事の答えはほとんど全くお経には書かれていない。さしたる根拠もなく習慣でしていることも、けっこう多いと思う。

  寺院をどのように経営していくのか?
これも、実は、お経には書かれていない。住職で、この問題で悩まない者は無いだろうが、どのお経にも書かれていない。不思議なことに、仏教系の大学にも、寺院経営の講座は無い。しからば、いったいどのようにしているのかと言うと、寺によってそれぞれ違う。大体の事は、師僧さんに教わる。宗派による違いというよりも、寺による違いだと思う。祈祷寺、檀家寺、観光寺院、札所、兼務寺、本山、などの種類分けになるかと思う。最近は寺院経営の参考書も出版されるようになったが、別にお経に書かれていることが根拠になっているわけでもないし、各宗派の祖師の教えに基づいているということでもない。
  釈尊は、遊行と托鉢の生活を送っていたので、寺院を維持することについて全くなにも説いていない。釈尊の当時、壮大な建築物もあったし、商業や通商も発達していた。だから、意識して避けたということになると思う。城と妻子を捨てて出家したのだから、むしろそれが本当で、興味も関心も無かったかもしれぬ。ただ、布施の功徳については様々に説いている。布施と言っても、ほほえむ、合掌する、頭をさげる、泥で塔を作る、などということで、なんでもお金を出せということではない。托鉢しても、その食を蓄えることを許さなかったから、釈尊の持ち物といえば、着ている衣と手に持っている鉢だけである。その鉢に食を受けることで、神秘的な功徳を積ませてあげるのが僧侶の仕事である。
  宗教が金まみれになって久しい。本質を失えば、自滅するだけだろう。

98/10/19


長保寺の檀家になることをご検討中の皆様に
  最近、たびたびご相談されることがありますので、この文章を書くことにいたしました。
  皆様もよくご存じのように、長保寺は江戸時代より紀州徳川家の菩提寺になっております。江戸時代は、境内に子院が五ヶ坊あり、それぞれに檀家があったようです。現在、長保寺の庫裡になっております所は陽照院と呼ばれ、御霊屋を設け紀州徳川家の藩主一族だけのための子院になっておりました。明治維新の時統廃合され、一般の檀家を福蔵院にまとめ、陽照院は廃止され長保寺の庫裡となりました。新しい長保寺となってから昭和初期までは、長保寺には徳川家以外の一般の檀家というものはありませんでした。一般の方を檀家とするようになったのは、先代の住職の時からになります。
  長保寺は平安時代の長保年間に始まっておりますが、ご承知のとおり、そもそもが一条天皇の勅願寺で国立の施設です。江戸時代には、長保寺は五百五石の禄をもらう官寺でした。檀家が集まって寺を支えるという仕組みではなくて、いわば公務員として給料生活をしていたのです。江戸時代には、徳川家だけの寺ということになりましたが、本質は変わらず、国立の宗教施設として存続してまいりました。現在は、一宗教法人にすぎませんが、国とのおつき合いはまだ続いており、境内全域が国の史跡に指定され、主要な建造物は国宝に指定されております。
  長保寺は、国の機関として始まったのですから、あらゆる人々を受け入れるべく計画されたと言ってよいと思います。現在も修理事業の際は、広く一般の方々からもご支援をいただいて事業を進めております。霊園に檀家以外の方を受け入れるのは、商売でしているのではなくて、それが全ての方を受け入れるという、そもそもの長保寺の目的であるからです。檀家であってもなくても、長保寺から見れば、全て信徒です。長保寺は門戸を開いておりますので、この信徒と檀家を区別して扱うということは出来ません。檀家の積む功徳も、信徒が積む功徳も同じ意味があるということになります。長保寺では、ご家族ごと何代にもわたって信徒であるお家を檀家と言い、個人で寺とおつき合いいただく方を信徒と言う、ということでいかがでしょうか。
  檀家制度は日本独特のもののようです。これは、日本社会の美風であり、今日の日本社会の安定と発展の基礎になっていると思います。檀家であることももちろん大事ですが、その前提に、信仰のある信徒でなければなりません。同じ信仰を代々続けたお家が、寺から見れば檀家であるというのが本当の姿でしょう。
  長保寺の檀家になることをご希望の方は、先ず立派な仏教の信徒になってください。必要だとお感じの時は、長保寺をご支援ください。そして、必要な時に、私をお呼びください。
  長保寺の本尊はお釈迦様です。お釈迦様を拠り所にして、生活してください。それが、長保寺を創建した一条天皇の願いであり、初代藩主の南龍公の願いであり、私の願いであります。

ご拝読ありがとうございました。  合掌

98/10/18


 私は無宗教だ、という人がいる。いかにも素朴で説得力がある。人間死ねば終わりだ、という人もいる。そうかもしれぬと思う。確かに、信じる宗教にかかわらず、無宗教であっても、夏には誰でも暑く感じ、冬には寒いであろう。何かの宗教を信じたからといって、死んで生き返った人はいないようだ。日本では、無宗教といっても恥じ入る人はいない。宗教家と呼ばれる人が、自分の都合を押しつけ過ぎた反動もあるかもしれぬ。日本のように均質化した社会では、宗教によって生活が左右される場面は少ない。結婚式はキリスト教、お宮参りは神社に、葬式は寺に頼む。そして、メソポタミアの占星術で今日の運勢を占う。こんな人は珍しくもない。宗教を持たなくてもいっこうに困らない。
  宗教を持て、なにかを信じろと言うつもりはない。ただ、誰の上にも、日は照らし、雨が潤すことを思ってみたい。いがみ合っても、ねたんでも同じ地面の上に立っている。自分に何かの宗教があろうと無かろうと、他人と一致しようとしまいと、星の瞬きは変わらない。敵でも味方でも、塩は塩、水は水である。イガグリのように何かの教義を身に付けるよりも、ただ天地自然の中にあるがままあれば、それで十分かもしれぬ。あるがままの自然こそ、ストレートに普遍的真実ともいえる。しかし、それで解決せぬ恐怖や苦悩があるから困る。努力や工夫ではどうにもならない不安や不満がいくらでもある。あんたは死ぬ、ああそうですかとはなかなかならない。
  今の日本人はひ弱で闘争心が無いという。野性味が無くなった事は確かだろう。古代人は霊魂のあることを感じていた。平安貴族など怨霊を常に恐れている。ただの迷信とは思わない。説明のつかぬことを、何でも霊魂にかこつけたということでも無いと思う。今日の言葉で言えば、動物的勘がとぎすまされていたのだと思う。現代人の摩滅して鈍化した五感では感じられないような、精妙な光や音を感じたとしてもさして不思議はない。あるいは、現代人にも強弱の違いはあっても、生きるための力として、そんな感覚が働いているようにも思う。今日では、宗教というと誰かが体系化した作り物のような代物になってしまったが、そもそもは、感じたままのこと、経験したことそのままのものだったろう。一つの経験でも、理屈をつけると、その理屈の部分が食い違ってくる。議論のはじまりは不健康の始まりかもしれぬ。誰でも、右の次には左の足を、などど考えながらは歩いていない。
  無宗教という人も、けっこう色々人生訓を残す。唯物論者も、社会の、人類のとけっこう饒舌だ。世界を完全に理解し、説明しきったと思いこんで、ありきたりの宗教以上に他人の生活に口を出すこともある。その時、なにが判断の基準になっているのか。つまりは、個人的な経験と欲望だろう。神などいないと言ったところで、ただ神に見放されたのを気づかぬだけかもしれぬ。世界は物だけで出来ていると言ったところで、言っている当人の欲望はそのままそっくり投影される。貧弱な個性の無神論にはつき合いたくもない。
  壮大な個性の人間がいて、桁外れの感性で大宇宙をありのままに感じ、それを求められるがままに教え諭す。長い人類史にそんなことも時にはあるのではないか。自分の外に、帰依し従わなければならない神を見いだした者はけっこう多いが、自己を見つめることで真実に到達できると説き、その道を、だれでもが歩めると宣言したのは釈尊だけである。

98/10/06


ルンビニー園 釈尊降誕レリーフ

 釈尊の時代、様々な思想、宗教が乱立していた。当然、無宗教もあれば、唯物論もある。当時の宗教のうち、ジャイナ教など、いまだにインドに残っている。ラージギルの七葉窟に登る参道でジャイナ教の高僧に出会ったことがある。全く無所得ということだそうで、素っ裸である。道のアリを踏んだりして殺生してはいけないので、いつも下を見て歩く。素っ裸だが、威厳がある。百姓は畑を耕したりして虫を殺すということで、商工業者に信者が多く、中には宝石商など大金持ちが多い。現在のインドでは仏教徒は非常に少なく、人口の1パーセント程であるという。仏教は一度全く消滅してしまった後、最近になって、ヒンドゥー教の根元にある人間を生まれによって差別する考え方に反発した人々が新たに始めた。ヒンドゥー教では、釈尊は、確か9番目のビシュヌ神の化身だそうで、いつのまにかうまいこと丸め込まれ、その他大勢にされてしまっている。
 釈尊がマヤ夫人の脇の下から生まれたという説話は、実はヒンドゥー教の作った差別観だというのをご承知だろうか。バラモン(神官)は神の頭から生まれ、クシャトリア(武人)は脇の下、バイシャ(商人)は腹、シュードラ(奴隷)は足だそうである。釈尊は王子であるから、カーストはクシャトリアとなる。よって脇の下から生まれたこととなる。したがってインドの仏教徒は、この説話は迷信であるとしている。
  インドではどこでも出会う乞食は、このカーストにさえ入れてもらえぬ人々である。人間として扱われなくて当然ということになる。遙かな昔から乞食をしているので、身体が小さい。10歳位で子供を産む。しばしば街頭で、手足の無い赤ん坊を抱いた女乞食に会うが、そのほうが哀れみをさそいお金がたくさんもらえるという理由で、親が切ってしまうのだそうだ。

98/10/04



 私はインドの釈尊の聖跡に4回参拝している。生誕地のカピラバッツの城跡に穀物倉庫の跡がある。2500年程前の釈尊の時代のものであるという日干煉瓦で積まれた壁が今も残っている。なんと、そこでは至る所から炭化した当時の米が出土する。地元の子供たちが集めて、観光客の為に売りに来る。日干煉瓦の中には籾殻が混ぜてあるのもわかる。

日干煉瓦に含まれる単粒米の籾殻

米は今インドで食される長粒米ではなく、日本と同じ単粒米であることが確認できる。釈尊は米、それも今の日本の米に近い品種の物を食べていたと考えて差し支えないであろう。
 ガンジス河の中流域に釈尊の聖跡は展開しているが、現在は、現地で冬といっても日中には40度にもなる乾燥地帯である。夏場は日本人には生活できない。鷲峯山の麓に日本資本のホテルがあるが、夏場は休業しているようだ。乾燥して、風が吹くと埃が多いので眼病が多いという。川筋から外れればまるで砂漠だ。今は砂漠化しているが、2500年程前には水稲が収穫できた。日本の稲作地帯と似たような気候であったろう。温暖で、水に恵まれ、肥沃であった。その様な土地で、瞑想と慈悲の宗教は生まれたのである。釈尊は王子として生まれたが、30才で城と家族を捨て、6年苦行して後、河のほとりの菩提樹の下に座して悟りを開いた。釈尊が悟りを開いたブッダガヤの

中央に見える山が前正覚山(釈尊が修行した山)

近くに、6年苦行した岩山が今もあり、その中腹には修行中住んでいた洞窟も残されている。苦行が終わりに近づいた時、神が現れ、この土地は悟りを開く場所では無いと告げたと言う。乾ききった岩山の中では、瞑想は成就しなかった。河べりの大木の下で、川面を渡るそよ風に吹かれ、せせらぎの音を聞き、滋養に満ちた粥を供養されて悟りは開かれたのである。
  ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった一神教は砂漠のオアシスから始まっている。生きることを拒絶する自然がそこにはある。我々日本人の日常の感覚からすれば、大自然と言えば、全てを育む生命力を連想するが、砂漠で大自然と言えば拒絶と渇きである。自然は、人間を優しく生かしてはくれぬ。生きることに追われ、自分を見つめるゆとりは無いかもしれぬ。そして遂に、砂漠では、神になる方法は開示されなかった。
  釈尊が、全ての生きとし生ける物は仏になることが出来ると宣言したのは、実は80年の生涯で最後の説法でである。それまでは、誰でも仏になるとは言っていない。はたして、キリストも80年生きていれば、誰でも神になれると言ったのだろうか。あるいは、釈尊が岩山で悟りを開いたら、回りに砂漠しかなかったら、はたして仏になる道を我々に示したのだろうか。

98/10/03

 


 

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