第2回 インド仏跡巡拝と仏教美術研修の旅
(平成5年1月3日〜13日)

紫雲寮寮監 浅井覚超
高野山大学学報 No.30 1993/7/1

 今回の巡拝地は仏陀伽耶、霊鷲山、竹林精舎、鹿野苑を始めとして、ナーランダ、カジュラーホ、サンチー、アジャンター、オーランガバード、エローラ等の見学である。なおそれ等の地は諸書に明らかなので旅行中の出来事、所感を中心に述べてみたい。
 巡拝者は、日下義章、浅井覚超、瑞樹正哲、佐藤正伸、跡部正紀、関根正尊、西村明治、五十嵐啓道、中島浩二、帰山光二、若田哲也、矢田部信恵子(以上一般)、薮地良弘、中原慈良、大久保壮聰、深沢敬生、帰山吉生、石倉康雄、大国晃生、鬼川志行、平川稔晃、松本一輝、元山真一、吉田光博(以上学生)の総26名である。
 元旦になって詰めていた歯がすっぽり抜けたことにつき3日からのインド巡拝に不吉な陰が横切った。案の定、デリー市内見学の後、インド航空パイロットのストライキによりパトナ行きの飛行機はキャンセル。これによって毎日毎日が必死の行軍に似て、昼夜をとわずぶっとばすバスの中の仮眠を余儀なくさせられた。ホテルでは午前3時就寝、5時起床のハードスケジュールも含まれている。
 1月3日、午後4時半大阪発、4日、零時半ニューデリー着。就寝4時、起床8時。クトゥブミナール(回教の72・5mの塔)、フマユーン廟(タージマハールの原形と言われる)、ラージガート(ガンジー荼毘の場所)等を見学し、全員でものすごい雑踏の中のオールドデリーのチャンドニ・チョウクを歩く。凡そ小さな古ぼけた店が並ぶ中、特に目を引いたのは死人の古着を剥ぎとって金銀の品を売っているダリパカーラン通りの店である。如何にも死臭が漂うが如き古着の胸の部分に金銀の飾りが付いている。その隣ではそれを燃やして金銀だけをとっている。道の真中で売れそうもない砂糖菓子を売る。その人の縄張りはそこしかないのである。そういった数々の光景に唖然としている時、同行のT氏がリュックの後ろをいつのまにか刃物で切られ金品を全て奪われた。以後、リュックは前に担ぐべしというガイドのパンカジ氏の意見に従った。私は小十字路でマントを着たインド人とすれ違いざま何も入っていないポケットをまさぐられた。我々の団体は彼等にとって格好の獲物であった。チャンドニ・チョウクは手ぶらで歩くのに限る。当日、私の目にはデリーから160km遠方のトープラーから移動したデリー城のアショーカ王石柱がもっとも美しく写った。しかし皮肉にもこの7章の法勅の石柱はイスラム教系の君主、シャーが勝利の塔として1356年に安置させたものである。
 1月5日、ニューデリー国立博物館見学。I氏より頼まれていた4面大日を撮影。1昨年の1月に来た時と違って、カピラ城跡と目されているピプラハワの出土の舎利器の前には細かな大理石がしかれ見学者に一線を画しており、かつ舎利も一部出されていた。午後、ヒンドゥーの美しい寺院。ラクシュミナラヤン寺ではガイドのパンカジ氏がはりきって一々の神に熱弁をふるっている。釈迦もヒンドゥーの流れの中に出現したという。彼等にとって釈尊はヴィシュヌの9番目の化身なのだ。ヴァガバタ・プラーナに言う如くである。この思想によって現在の仏跡が護られている度合いが大きい。しかし、ヴィシュヌの化身としての釈尊は、単にヒンドゥー教の魔敵を惑わせるために説法した、として彼等は釈尊を信奉しない。尤も、長いインドの歴史の中で仏教に対する弾圧を考えれば仏教より遠ざかるのも無理のなからぬ所である。
 パトナへのフライトがキャンセルされたこともあり、チベッタンバザールを歩く。帰りがけ同行のK氏がいきなり靴磨きの少年に襲われた。無理矢理靴を磨き、しょうのない薄皮を内に張り、700ドルよこせという。靴磨きだけではふつう10ルピー。K氏は100ルピー払って去った。後で聞くと同様の手口にあってS氏も当惑、彼の場合は120ルピー払ったという。まあ、布施をしたと思えばそれまでであるが、カーストという慣習の下、彼等はどうやったら儲かるかと大人も子供も必死である。したがって道路を歩くにも我々旅行者は神経を張りつめておらねばならない。午後8時にベナレス行きの列車に乗る。運行途中、私、日下氏、佐藤氏は蛇腹のない車両間をかいくぐって遠方の車両へ移動。日本では想像もできないことはこれのみではなかった。泥棒一家、というより親が子を使って熟睡中の懐をまさぐらせるのである。怒鳴りつけるとソーリィ・ソーリィと言って退散。子供だから許されるというところに付け込んでの行動。夜食の駅弁のカレーが好評であった。
 1月6日、午前11時半ベナレス着。サールナート見学。大菩提寺にて供養読経。護持僧にインドの子供達への菓子を渡す。この寺では1年に1度舎利器が出される。I氏から依頼の廃寺の写真を撮影するのにてまどる。仏陀伽耶に向かってバスは突っ走る。午後8時半ササランという町までさしかかった時バスの故障。
 1月7日、零時半仏陀伽耶のホテル着。食事、仮眠の後、大塔参拝。大塔への寄付金、全員で6百ドル。金剛宝座には新たに黄金の天蓋を設けてあり、16日に護持国のスリランカの大統領が来るまで中には入れぬという。少し残念だが外で法要。昼には日本から持参した蜜柑1箱を持ち霊鷲山に登拝。往復、かつて馴染みの警官を雇う。愛想が誠によく、学生の要望に応えてピストルを開いて弾丸まで披露してくれる。ついでに空ピストルを学生に向かって撃つ。霊鷲山の阿難の窟ではビルマ僧が瞑想中であった。頂上の香殿にて観音経偈三巻。経木塔婆にて釈尊、十大弟子、諸大阿羅漢、三界万霊の供養。感慨無量。午後2時、法華ホテルにてネパールで秘密に作らせている日本米にて昼食。歸山君にとってはあまりにもうまかったので少しがつがつし、後、下痢の原因となる。ナーランダ大学跡、並びに博物館見学。館内撮影禁止。電灯もついていない、というより消していることが後で分かった。私は美しい金剛薩タの写真を撮りたくて、カメラを抱えてどのようにすれば撮れるか思案していた。結論から言えば百ルピー払えばカメラはOKであった。今1人別に百ルピー払うと電灯のスイッチが入った。全て金で解決できるのがインドである、とはガイドのチョウハン氏の説明。竹林精舎への途、カージャという菓子の配給。店のその菓子には蝿ならず蜂がたかっている。パン菓子に蜂蜜がついており、味としてはまあインドではましな菓子である。面白いのはその菓子に塗った蜂蜜を蜂がとり返さんとばかりにたかっていることである。竹林精舎では鬱蒼とした竹の中、ブーゲンビリアがひときわ目を引いた。午後4時45分バスにてベナレスに向う。午後8時頃、またもバスの故障。 1月8日、午前2時半ベナレス着。夜食だか朝食だか分別がつかない。早朝、ガンジス河へ乗船。笛売りが我々の船に対しインドメロディを奏でてくれる。小鯰を買いつけて放生と万霊供。ガンジスの女神は機嫌が悪く朝日の昇らぬ曇り空ではあるが、ヒンドゥー教徒の沐浴のしぶきと荼毘の煙、布を叩きつける洗濯屋の光景はこの河の特色。
 12時15分、カジュラーホへのフライトもキャンセル。ひたすらバスに揺られて4百q、凡そ10時間の道のりを出発。午後3時、デカン高原上部にさしかかり昼食。道端のありふれた店でチャイを飲んだものの、裏の畑即ちトイレに行くと掘りかけた井戸が向うに見えている。石壁もなく地を抜いただけの井戸。濁っていることは言うまでもない。少年がそこからせっせと水を運ぶ。我々もこの水を飲んだ。このあたりから皆の下痢が拡がった。バスの故障を2回経て午後4時、マドヤプラデッシュに入る。集まってきた子供達にチョコレートを1袋分配る。珍しそうにしていたまではよいが食べぬどころか最後には踏みつける。食べたことがないのである。色が悪いので土とでも思ったのであろうか。歸山氏が食べる真似をしてアーモンドチョコをあげるとその少年はチョコの表面をボリボリと爪で剥き、あげくの果てに食えぬと判断し年下の少年に渡す。完全に食べれると分かる菓子を渡すと年上の少年は菓子を受け取った年下の少年を殴りつけて奪う。一昨年のように1列に並ばせて配分するべきであった。高原の起伏の中、道沿いに若干の家があり、中には自分の土地を板石で囲んでいる。一帯、石はふんだんにあるが森は見当たらない。午後11時半カジュラーホ着。
 1月9日、5時起床。薄明の中、ヒンドゥーの寺院見学。案内人が愛の戯れの箇所ばかりライトで照らして力説する。無上瑜伽密教の父母双入とそっくりの姿がある。さて、急がねばサンチーの夕暮れに間に合わない。早々と去って午後1時40分、ジャンシー駅より列車に乗る。サンチーの近くのヴィデサの町に来てアショーカ王の妃がこの町より出たと聞く。午後3時ボパール着。サンチーの塔説明の為、女性ガイドがつく。サンチーまでバスで戻る(1時間20分)。4時半にサンチー着。第1塔を見学。第2塔と第3塔を見学する時間はなかった。仏弟子(目連?)の塔の前にて読経。I氏の依頼の四仏、廃寺の撮影に追われる。6時過ぎ夕闇に下ると番人が門を閉めている。5時半まであるから開かぬという。要するに金の催促であった。ボパール駅では物乞いの少女が片足のない赤子を抱えている。彼らは物乞いに生まれたら一生涯物乞いという。
 或いは生活のためには他人の子を盗み不自由にして哀れみを誘うこともあるという。現在のインドの法律では人の平等をうたうもののカーストの慣習は恐ろしい。2時間遅れの列車で零時過ぎボパールをたつ。
 1月10日、列車泊なれど1人のベットがとれずパンカジ氏は大声で車掌とやりあっている。デリー大学の日本語優等生も我々のために必死だ。しばらく続いているので私は大国弘貢君を連れて、この生徒は四国遍路の野宿で鍛えてあるのでどこでも寝れるから心配ないと伝えた。それ故、争論は止んで大国君は毛布を敷いて得意のゴロ寝。私は全て見届けて午前3時に就寝。同6時半、プサワール着。バスにてアジャンターに向う。途中のデカン高原にはバナナ、砂糖黍、紅花、日まわり、粟、綿の花の畑が次々に展開する。動物も様々で野猪の動きが特に面白い。誰にも相手にされず村の中でも自由に遊んでいる(イスラム教徒は豚を食べない)。さて、ガイドの2人は昨夜、現地人に混じったベットの学生に対し寝ずの番をしており、今はぐっすり眠っている。彼等にはバスの中が最上の天国なのだ。9時半、アジャンター着。見学者各々に紫水晶の原石を片手に持った物売りがどっと群がる。プレゼントするという。そのかわり石窟見学の後にはその店にて買わねばならない。2百ルピーにて4人がかりの篭かき。石窟見学後も麓まで運ぶものの更に百ルピーを要求する。4人がかりでは恐ろしくて払う者もいた。誰かが言う、名づけてアジャンターの雲助。それにしても壮大なるアジャンター、数時間ではじっくり見ようがない。カメラのシャッターも疲れた音を出している。勿論、法要とメインの箇所の見学は果たした。黒衣の南インドのヒンドゥー教徒10人ばかりと会う。たいていの語をこなすパンカジ氏もこの人達のタミール語は分からぬという。彼等は自尊心が高く他語は一切話さないという。ただ表情のわりには愛想がよく、学生の要望に応えて記念撮影。それにしても暑く、10ルピーのコーラがうまい。午後3時、バスにてオーランガバードに向う。夕暮れに到着。今は数窟しか見れず従って写真も撮り易い。この所では蓮華手菩薩が有名。山上にポツンとあり、眼下に広がる街の中にタージマハールが見える。午後7時半、ホテル着。
 1月11日、明日に行く予定のボンベイではアヨーディヤーの暴動の飛び火にてイスラム、ヒンドゥーの対立。死者37人。列車にてボンベイ市内に入る予定を変更。2班に分かれてどうにか飛行機便をとる。従って本日のエローラ見学には一部の人達は早めに切り上げねばならなかった。6時に起床しエローラに向う。総34窟中、密教では第12窟が有名。ボンベイへ先便フライトの人達は午前11時発。我々後便は午後3時40分までゆっくりとカメラを回す。岩山をくりぬいて造った壮大なヒンドゥーのカイラーサ寺院、ジャイナ教寺院等全て見学。マハービーラの像は釈尊とそっくりではあるが、一糸も纏わぬ故に男のシンボルがくっきり見える。ジャイナ教信奉者は大富豪が多いと聞く。午後6時の飛行便にて同7時5分ボンベイ着。空から見るとボンベイ市内の家が2箇所ほど燃えていた。ホテルも市内を避けて郊外のホテルに変更。外出禁止令の中、投石があったり、車が炎上している。ホテルの従業員も帰宅する者は少ない。中央道路は警官が立ち、車がまばらに急ぎいく。ホテルでの屋上展望レストラン(2時間で1回転)にてネオンのアラビア海を眺め、唯一の安堵感を味わった。
 1月12日、外出禁止令とあってはウェールズ博物館にも行けない。1日中ホテルでくつろいで疲れを癒す。元気な者はプール。夜の帰国便も危ぶまれたが軍隊の応援にてパスポートの検閲が進んだ。
 1月13日、午後12時過ぎ大阪着。
 帰国後、学生諸君に感想を聞く。
「インドは日本よりはるかに楽しく面白い国でした。日本のように整理された町並み、家々とは違って素朴さがありつつも何か混沌とした不思議さに包まれているようです。」更に何と言っても、仏跡における法要は我々仏教徒にとって人生の意義をこよなく深まらしめる感が強い。
 終わりにインド仏跡情報として以下がある。
 1、ルンビニーのマーヤー堂の改築着手。
 1、ヴァイシャリーの発掘にて2つの新たな僧院跡(一つは卍形)がみつかる。今後も広く発掘が続く。
 1、再度、日本の某大学教授、祇園精舎の発掘準備中、アショーカ王石柱、牛頭天王を探り当てるか。
 1、仏陀伽耶の金剛宝座の上に新たに天蓋が完成。    合掌