平成3年  高野山大学紫雲寮60周年
インド八大仏蹟巡拝記 (平成3年1月2日〜13日)

紫雲寮々監 浅井覚超
高野山大学学報 No.26 1991/7/1

 平成3年を迎えるや否や、数年前に企画した紫雲寮60周年の記念行事の一環として8大仏蹟巡拝の旅に出た。学生には極めて負担のかからぬ様に旅行会社と交渉してぎりぎりまで安い値段にしていただいた。出発まで1年半程の期間があったので学生諸氏はアルバイトをして旅費相当額を貯蓄した。巡拝者は紫雲寮々生をはじめとする学生、紫雲寮有縁者の25名(左記)である。
  浅井覚超   森 成正   田中厚博   瑞樹正哲   五十嵐啓道
  関根正尊   田尻哲玄   矢田部信恵子   井上武幸   井上隆心
  伊豫田光寛   大国弘貢   大島智明   鹿嶋康司   金尾英俊
  歸山吉生   後藤久彦   鹿本康央   土子信也   中川拓也
  中原祥徳   堀川法行   森 治政   矢野克典   薮地良弘

 周知の如く4大仏蹟は、ルンビニー、ブッダガヤ、サールナート、クシナガラであり、アショーカ王はラージャグリハの竹林精舎、ヴァィシャリー、シュラーヴァスティーの祇園精舎、従三十三天降下、、三道宝階の地サンカーシャを加え8大仏蹟と定めた。さらに近年、カピラ城の遺跡と言われているピプラハワの地を加え、9大仏蹟と呼ぶ人もいる。我々はそれ等の仏蹟の地に釈迦ゆかりの地を時間の許す限り読経、供養しつつ巡った。
 インドの領内は飛行機を利用せずバス、夜行列車、人力車等に乗り継いだことがインドの人々、風俗により深く接することができた。皆、心を一つにしたダルマ・ヤートラ(仏蹟巡礼)であり、衣体も奥之院で求めた負摺を着用した。単なるストゥーパのみ残る遺跡にても、あるいは七葉窟(第1結集地)のようにみたところ単なる山頂の洞窟においても、その霊蹟をとりまく大自然の中に立ったとき、誠に感慨深く、況や、舎利安置の初転法輪寺、乃至霊鷲山、金剛宝座などは言葉には表せぬ程心奥の晴るる想いがした。

 インド巡拝中、いろいろな出来事があった。それらを含めて以下、巡拝内容を記してみたい。

 1月2日 午後2時50分、大阪発(バンコク経由便)

 1月3日 午前3時、デリー着。朝食後、デリー、ニューデリー市街見学。午後4時、ベナレスに向かう。(夜行列車)

 1月4日 午後5時、ムガールサライ着。バスでベナレスに向かう。ベナレスより更に初転法輪の地、サールナートに行く。おりしもサールナートではダライラマの法要が行われており、2万人のチベット人が集結していた。特別事態でバスは途中でストップ、人力車に乗る。まず正覚した釈尊を5人の比丘が迎えた所、迎仏塔参拝。初転法輪寺(大菩提寺)、博物館は群衆でごったがえしている理由で臨時閉鎖。明日再び参拝することにした。ダーメーク大塔の近くでは、ダライラマの法要後の大衆供養にて、果物、菓子などどんどん飛んでくる。よそ見などしていると何がぶつかってくるかわからない。ハプニング。瑞樹氏は2度も果物を頭部に直撃。歸山君はダイレクト・キャッチ。相当の距離はある。チベット人に野球の投手をやらせたらいい線いくだろう。とりあえず、本日はブッダガヤの孫菩提樹の茂る下、チベット仏教徒護持の釈尊を読経供養して後、帰路についた。添乗員の柴野氏が言う。「いやー、皆様の白い負摺のお陰によってすぐに人数が確認でき私も助かりました。」
 帰りに又、ハプニング。3台の人力車が間違って別な所に行く。いくら待ってもバスまで6人(3台分)が来ない。その迷子は学生ばかりではなかったので私はそのうち何とかなるだろうと安心していた。下手に我々が動くと行き違いになる恐れがある。添乗員、インドの案内人は必死の様相をしていた。先に到着していた車夫達に6人の行方を聞いても「知らない。それより早く金を払ってくれ。」と言う。1時間10分過ぎてやっと戻る。話を聞くと人力車がエンコして車夫が前車を見失ったせいである。別な地に連れていかれた彼等のうち、関根氏は車夫に全く言葉が通じないので地面に地図を画いてもとの場所に戻れと示した。(もとの場所に戻っていたところに添乗員が捜しに来た。)山中同様、好判断である。

 1月5日 午前4時半起床。聖なるガンジス河に向う。川靄の棚引く川辺には既に土産売りが我々につきまとう。船出してベナレスのガンジスを逆上る。岸辺にはヒンドゥー教徒のガート(沐浴場)並びに民衆の洗濯場が多くみえる。ガートの岸辺は浄土であり、対岸の如く見えている中州は穢土という。この中州は雨期には沈む。対岸は全くみえない。朝日がのぼる。真赤で盥のように大きい。全く眩しくなく、正に日輪を本尊として観法するのに容易である。皆感慨の声を出して見とれる。突然驢馬の悲しいいななきが響く。洗濯物を山のように満載した驢馬が石段を上手に降りてきたものの何か主人の怒りをかって叩かれている。驢馬の悲しいいななきがインドの貧しさを象徴するかのように聞こえてならなかった。
 久美子と大きく書いた家がみえる。久美子さんはガンジス河の朝日の囚になり、遂には結婚してここで宿屋を営んでいるという。柴野氏の合図で大学生一同が大声で「久美子さーん」と呼ぶ。高き岸辺の家から太っ腹の御主人が出てくる。久美子さんはまだ寝ているのだろうと囁いている時、やっと顔を出して手を振る。40は過ぎているらしい。大学生にこんなに慕われる久美子さんは幸せそのもの。これもガンジスの女神のもたらす恵みの一つだ。さて、旭の昇る中、船上では我々の供養が始まる。日本より持参の経木塔婆に無縁之霊菩提也と書きつける。ガンジスに浮浪する霊の供養である。ガンジスはヒンドゥー教では天国行の河であるが、実相の世界はその理で納得できるものではない。おりしも船で活魚を売りにきた。放生として買うことにした。インドでは何でも値切って買えと教えられていたので値切ろうとしたが、「仏教の供養に用いるのに値切ってはならない。」との言葉があってその値で買う。鮎擬に似た鯰科の小魚であった。もとの恒河に放つ。読経終わって経木7枚を流す。恒河の聖水は持ち帰っても腐らないという。小壷を値切って買って水を汲む。個人で買うより大勢で値切ると壷が1個余分にきた。やはり多人数の迫力は流石のインド商人もかなわぬらしい。船着場に戻ると下流の岸辺ではヒンドゥー教徒の荼毘に付す白煙が数条のぼっていた。彼等にとってベナレスの荼毘は最高の葬礼。2才以下の赤子は焼かずにそのまま流す。行き倒れの人には、喜捨を募り、ある程度の金が集まると葬儀屋は適当に薪を燃やして処理する。岸辺では来た時と同じ様に数珠売り、笛売りがつきまとう。コブラのような形をした笛の音色に聞き惚れて何人かが買う。吹くと聞いている程にいい音色はしない。
 昨日閉鎖されていたサールナート博物館に行く。国章のアショーカ王石柱の柱頭四匹像(前3世紀)を仰ぐ。インドで最も美しいと言われるグプタ朝(5世紀)の初転法輪の釈迦石像あり。ガラス張りでないので触れることができる。番人はそれについて何も言わない。それ故、チベット人は有難そうに釈尊の足に触れている。そこのところが少し色が変わっているようにみえる。ここではカメラは無料だがビデオは有料。ビデオは只一人瑞樹氏(長保寺)が持っていた。40ルピーを20ルピーに値切って持ち込む。仏像を安置してある部屋がいくつかありその部屋々々に番人がおり、その番人はそれぞれにビデオ代をくれと言う。瑞樹氏も少しは世慣れしているので、「ノー、ノー、ノー、」と手を振る。帰りに入口で約束の20ルピーとペンをサービス。
 鹿野苑参拝本命の初転法輪寺(大菩提寺)に入る。スリランカ僧の護持している寺院であり、ここの釈迦仏の後方に舎利器が安置されている。持参の燭台が役に立つ。施供、読経。世尊の慈悲の心が伝わってきてありがたくて涙がこぼれるのをこらえた。屋外ではチベット人の太鼓囃の踊りがくりひろげられていた。草原にたむろしているチベットの少女がさようならと日本語で言う。大分日本人慣れをしている。チベット人の赤子の裸を観察しお尻の蒙古斑点を確認して安堵する。チベット僧が寄附帳を持ってくる。何だかよくわからないが有難く施した。チベット文字の領収書をもらう。読んでいると端からアクセントをつけてくれた。意味のわかった顔をしておく。今1人チベット僧が来て寺を建立して黄金仏を安置するという。その方にも施させていただく。つくづく思うにチベット人は子供にも厳然としたところが窺える。下手にものを欲しがりはしない。インドという地をわきまえての親の躾のせいかもしれない。まして若き求道の比丘たるや誠に真剣そのものであり後ろ姿を拝まざるをえない。

 1月6日 ブッダガヤ参拝。13世紀、イスラムの侵略によって破壊を恐れた仏教徒は金剛宝座は勿論、大塔も九層部を残し土で埋めた。小高い丘としてカムフラージュすること六百数十年。その信仰による大事業たるや、現場を見れば誰でも驚嘆するであろう。現在はその土は払われ、金剛宝座も破壊されずに現存している。当時の仏教徒の凄まじい努力は現在にいきる我々に大いなる糧となって光輝いている。発掘し土を掻いた為、大菩提寺、宝座のあたりは窪地のように見える。大菩提寺参拝。次いで金剛宝座に行く。菩提樹もろとも柵で護られている。鍵を開けてもらって宝座の横に跪く。菩提樹の陰の涼しさも感激の余り忘れてしまう。香灯、供物を奉献し、ゆっくりと勤行する。宝座は赤い布で覆われて、その上に大小の蓮華がびっしりと供養されている。インドの供華は花のみであり茎は用いない。去り難く宝座の一隅に触れる。その清涼感は全身を駆けめぐり、その時ばかりは煩悩の火は止んだかと錯覚した。帰り際に番人が桶に清水を入れてきて菩提樹に水をかけろと言う。御礼の清水を手向ける。この菩提樹は釈尊成道の木より孫に当る。かつて釈尊成道の菩提樹よりアショーカ王の王子達はスリランカのアヌラーダプラに植樹した。今日まで命脈を保っている。その樹より1880年、カニンガムはブッダガヤ復旧工事の際、焼かれたもとの大樹の根株のところに実生を植樹した。現在は堂々とした大樹に育っている。正に直孫3代目である。『四分律』ではもとの大樹の樹神が、成道した釈尊を見て四天王を呼んで供養させている。今もその樹神は3代目に宿っていることであろう。仏足石を拝む。また、釈尊成道して経行した際、その跡に蓮が生じたと言われ、石の蓮形の経行跡が塔の横にある。釈尊の一歩は相当長い。その大塔の周囲をチベット人が五体投地して巡っている。
 ムチリンダ竜王池では乾期の青空を写し、水蓮が供養の開敷をみせていた。
 バスで尼蓮禅河の辺に立つ。雨期は増水。今は裾を少したぐれば歩いて中州のスジャータ村に渡れる。黄金鉱か、きらきらと金砂が清水に輝いている。気持ちがいいので素足になる。村に行くと椰子酒を造る為、椰子の木がじぐざぐに刻まれている。小樽を吊して朝に汁をとり水とアルコールを混ぜる。後で少し嘗めたものの酸っぱかった。スジャータのストゥーパ跡がある。ハプニング。1人がストゥーパ跡を登り始めると白装束に驚いた牛が突然角をたてて突進してきた。子供達もびっくりして逃げ惑う。現地の人が大笑いしている。このような光景は珍しいらしい。ともあれスジャータは余程やさしい女性だったらしく今もストゥーパ跡で多くの牛を遊ばせていた。スジャータを祀るスジャータ寺はヒンドゥーになっているものの例の如く釈尊も奉祀している。ヒンドゥー教では釈尊はビシュヌ神の第9番目の化身とされている。驚いたことに1週間前、柴野氏がこの寺を案内した時はここの仏足石は実在していた。過日、盗まれたという。釈尊の前で勤行。続いて苦行林に向う。やはり菩提樹が茂っている。若いチベット僧が一心不乱に読経、観法している。堂々たるものである。帰路の砂野には多くの物乞いが列を為していた。子供にでも金をやると喧嘩がおこるという。難しい。徒歩、2時間かかって戻る。
 前正覚山に向う。世尊が苦行を捨てて当山に登ったところ、山の神は「この山は正覚できる場所ではない」と告げた。そこで世尊は西南側より下山し菩提樹の下へと赴いたという。がたがたの岩山の路をバスで揺られる。バスに投石する子供達がいる。添乗員達が降りて、石を手に持って走りくる子供をどなりつけながらバスと共に走る。バスの中はすべてカーテンを閉ざす。私はその縫い目から外を覗いた。ここは運転手がいやがる所である。途中、何度も引き返すというのを柴野氏がなだめていた。遂にバスが行けない窪地にぶつかり徒歩となる。ここから往復2時間かかる。ぐずぐずしていると日が暮れる。周囲は全く異次元の光景。小さな土小屋が点在し、背の低い10歳位の女子が既に結婚している。インドの田舎では12歳位になると結婚するという。くねった砿野に椰子の木が点在している。突然、尾長猿が数匹走り出す。人はこのような場所でどのように生活しているのであろうか。牛を飼っていることは確かである。前正覚山の岩山に登る。こんな山中に物乞いの列。上の拝所では中央に釈尊の篭ったと伝えられる留影窟がある。一心に祈願すると世尊の面影が出現するという。ここはチベット僧護持の仏跡である。それ故に窟の右側の堂はチベット形式の釈尊を奉祀し、左側の堂はダライラマの写真を安置している。おりしも太鼓を打ってチベット僧の夕の勤行が始まっていた。信者が献じた小さな灯供皿が、中央の留影窟の前に多く並んでいる。少し下の庫裡よりバター茶の香が漂う。夕陽が美しい。2時間かかってバスまで戻ると悪路にはまっており、丁度やっと動き始めたところであった。2時間、エンコラ、エンコラとしていたのである。暮れかかったバスの回りにはどこから湧いたのか、現地の人が集まっており、大声でバスを励ましていた。田舎人のよい性格が窺えた。子供達の人垣にとり囲まれる。カメラを向けるとびっくりして四散する。皆も真似をしてカメラを向けて子供の難を逃れた。誰かが言う。「こんな手があったのか。」とっぷりと暮れた帰路も子供の投石に気を配る。途中に点在していた焼け崩れた壁も今は見えない。夜9時にラージギル(王舎城)に着く。

 1月7日 5時起床。霊鷲山を登拝す。ビンビサーラ王が築いた石道を歩く。そこらの草木、石ころが法華経の文字のように思える。昨夜同宿の韓国の尼僧達が先に勤行していた。御来光の折、我々の勤行が始まる。前讚、観音経偈3巻、心経3巻、諸真言。あたかも釈尊が眼前に坐するが如き感に満つ。『法華経』の「如来寿量品」の1句、倶出霊鷲山の言は真実である。瑞樹氏の供物皿がいつも役立つ。この聖山の上もやはりイスラムの破壊を恐れて土で覆われていたという。明治36年、大谷調査団によって確認されている。世尊の香殿に靴を脱いで参拝したものの全く去り難い。警官が往復護衛してくれる。暁闇の途、何かあってはいけないので礼金を払って柴野氏が便宜を計っているのである。
 マガダ国城跡を見学。灼けた岩道に古代戦車の轍跡がある。牛の群がゆっくりと過ぎてゆく。どの牛も仏相(眼睫如牛王相)を具している。ビンビサーラ王牢獄跡に行く。牢獄跡といっても広い。大学の松下講堂位の広さはありそうである。彼は息子に投獄され餓死した。一連の物語は有名である。近年、牢獄の足かせ鍵が発掘されている。朝食後、竹林精舎に行く。ビンビサーラ王の寄進地である。ここが、竹林精舎跡として発見された時、竹の根株も発掘されている。今育っている竹はネパール国境より移植されたものであり、2種のうちの1つは節目から蕀のような襞が垂れ下がっている。世尊当時の竹林に再現されたのは前田行貴氏の功績である。
 第1結集地、七葉窟跡に登拝する。登山口にはヒンドゥーの温泉浴場がある。上の浴場から流れ出る汚水(少し濁っている程度)が溜まった下の浴場では下層民が体を洗っている。何という差別であろうか。それでも彼等は楽しそうに湯につかっている。今少し登った所に迦葉窟がある。この名称はあやしい。麓より約1時間近く登って七葉窟跡に到着。窟が2つ残っており、勤行後その1つを探索。奥行3キロはあるという。崩れていて途中で断念。この山は鶏足山(尊足山)の山脈の一角であろう。仏典に言う。摩訶迦葉は、弥勒が成道し龍華という菩提樹で三会説法に至るまで釈尊の大衣を身に纏い、肉身のまま入定している、と。奥之院の弘法大師の信仰もこの思想に連なっている。仏典第1結集の中心は摩訶迦葉であり、『法顕伝』には摩訶迦葉窟についてのやや詳しい記載がある。法顕はその入定窟まで険路を辿っているが玄奘は窟まで到達していない。現在、摩訶迦葉の入定窟は不明である。それにしても地形は当時より変わってもこのような場所に五百人の羅漢が集会したかと思うと感慨深かった。遥か下の人家がマッチ箱よりも小さい。人数が1人不明。さては窟に入って入定したか、それには早すぎると思って森治政君を捜す。腹の具合が悪くどこかに行っていたとの由、安心する。下山途中、少女の話によると夜は虎、強盗が出るという。我々には警官が護衛していた。勿論、雇ったのである。
 ナーランダ大学跡を見学。まだ一部しか発掘されていない。それにしても広い。各々石の寮室にはもともと戸が無かったという。何故かと言うと、教師が見回って寮生が一生懸命勉強しているかどうか確認する為であるといい、その意味では高野山大学紫雲寮よりも厳しいと柴野氏が説明する。皆、ふきだす。石室に戸があろうが無かろうが学問の情熱は所詮比較にならないであろう。舎利弗のストゥーパ参拝。ナーランダ大学にあるということは教師も生徒も智慧第一の舎利弗にあやかるところが多大であったろう。多くのチベット僧が来ていた。有憂樹の並木が癈址を我々と共に憂いていた。
 パトナに行く。アショーカ王宮跡、第3結集クムラハール遺跡参拝。アショーカ王の8万4千の法勅がここより発令されたという。アショーカ王柱が1本横に安置されており、他の1本は池の中に立っていた。池の1本は雨期には埋没する。第3結集では経律論の三蔵が整備された。この地の発掘もまだ未完でさらに調査が期待されている。気がつくと既に闇の中である。インドの夜は日本よりはるかに暗い。インドでも都会はネオンもついてはいるが、少し離れればぬばたまの闇である。昼の道と同様に人々も、驢馬も、牛達も光なき闇路を急いでいる。

 1月8日 第2結集地、ヴァイシャリーに向かう。6キロの東洋1の長さを誇るマハートマ・ガンジー橋を渡る。30ルピーの通行税を払う。橋から10キロ左手のガンジス河の岸辺にゴータマの岸と呼ばれる所がある。ありし日の釈尊が渡られた岸である。心はその岸辺に向かう。午前8時、ヴァイシャリー着。釈尊が沐浴された池は、後世大きく造られている。ダルマ(法)とはこの清水の如く澄み、万物を潤すものかと掌に掬む。田舎道を百メートルばかり歩き、右手の畑の中に舎利器が出土したというストゥーパ跡がある。香殿あり。傘状の大テントが張られている。まだ朝露の消えぬ浄気に包まれて読経供養。 西方3キロの地点にアショーカ王柱あり。今となっては数少ない獅子頭がついている。手前にストゥーパあり。インド政府の発掘調査の真最中であった。そのすぐ南に猿公達が池を造って釈尊に供養したというラーマクンド(沐浴地)あり。その西に猿王が釈尊にマンゴー蜜を供したという所あり。即ち、ここは猿王奉蜜の地である。このヴァイシャリーは釈尊が『維摩経』を説かれ、また薬師如来招請地である。すぐ近くにこの地で生誕したマハーヴィーラの記念碑がある。
 帰り際にテント造りを眺める。牛糞を素手で床に塗っている。この地の発掘がどのくらいの期間続くかわからないが調査結果が楽しみである。
 次にクシナガラに向う。途中の路々、子供とか大人が竹竿で通せんぼをする。何事かと思うとサラスバティー(弁才天)の祭の寄附金を募っているという。サラスバティー河は今は消失しているが(一説)、子供の祭りとして名をとどめている(通称、この名の川もある)。智慧と芸に優れる御利益にあずかっているのであろう。初めて竹竿で停車された時はインドの案内人、カプール氏は弁当の残りのゆで卵1個を窓の外にほうり投げた。竹竿は引き戻されて発車オーライ。いかに寄附を募るとはいえ竹竿で停める方も停める方だが、ゆで卵を1つ投げてこと足りるところが何ともユーモラスだ。道行く人は屡々手を挙げて車に乗せろという。運転手は全く無視。砂糖黍の満載車がひっきりなしに通る。今が一収穫期らしい。砂糖黍はすぐに成長し、1年に2度とれる。車から溢れている1本を誰かがバスの中からいただいた。歯で皮を剥いで中の蕊をかじる。皮が厚くて面くらう。固すぎて洒落にならない。農民は大人も子供も砂糖黍を縦にかじりながら牛や羊を追う。これも絵になる。思うにインド人の歯の強さはニームの木の歯磨きと砂糖黍の皮剥きにあるらしい。
 午後4時 駱駝の群に遇う。ゆっくり歩いているように見えても早い。忽ち遠ざかる。駱駝の歩きざまは男がプライドを掲げるかのように鼻をあげて歩く。牛よりも力が強いのが特徴。この地方では牛が多いけれども西部のラジャスタンの方面に行くと牛はおらず駱駝ばかりとのことであった。束の間にユーピー州にさしかかる。4時30分、チュンダ村の入口に着く。そぼ降る雨の道の奥に腹痛の釈尊を想いうかべる。釈尊が仰せられたこととして、俗人としてはスジャータとチュンダは供養せよと。この柴野氏の説明は俗説か。トラックがまた道路下につっこんでいる。インドの幹線道路は雨期に備えて道の両側より高くなっており、道の左右の植樹も土を高く盛りつけた真中に育っている。この光景が延々と続くのである。その左右に落ち込んだトラックを数えているときりがない。
 午後5時、愈々クシナガラの大涅槃寺に到着。ビルマ僧が護持している。6.1米の巨大な石の涅槃像の前に跪く。香煙満々とした堂内は世尊の巨大さに小さくみえる。読経後、ビルマ僧が世尊を覆っていた布をはずして、その大慈身を見せてくれた。帰りの入口では僧の鉄鉢の中に布施を置く。仏滅2500年(1956)に植えた沙羅双樹が大きく育っている。その下で種を拾う。日没の中、最後の説法地跡の堂に礼拝。懐中電燈で触地印の釈尊を拝む。次いで荼毘塔参拝。闇の中でも現地の人は花輪を売りにくる。我々の献灯が荼毘塔の一隅を照らす。釈尊の舎利と思いて土を少し拝受する。ホテルには9時近くに着く。

 1月9日 午前4時起床。寒い中、昨夜は天井続きのトイレの方から百匹程の蚊に魅いられて香取線香が役立った。朝食は粥。持参の梅干、お茶漬海苔を出す。愈々、ネパール領、ルンビニーに向う。田舎では果てしなく芥菜(マスタード)の花が満開。朝靄に霞む中朝日が昇る。例の如く大円真紅。護摩で投供する芥子粒の意味がわかる。第1にたくさんあるからである。ケシ粒は代理か。インドの大自然に触れると1つ1つ感銘をうける。7時、また竹竿で通せんぼ。寄附かと思えば今度は違う。国境番人。パスポートを運転手の助手が持参してゆく。すぐ側の道端では藁を燃やしている老人がいる。ただ藁を小さく燃やしているだけで屋台らしきものすらないが、露天営業の茶屋の主とのこと。8時やっと国境に着く。ここまで3度の通せんぼがあった。出発まで小1時間の余裕あり。ネパール帽を買う。黒帽は正装用。他の色柄のものは普段用。店を物色して珍しい柄の袋、並びにテーブル掛けを買う。あとでよく見るとテーブル掛けは意外に大きく、おまけに裏地に穴が開いている。そういえば棉を量っていたところより、数人で談義の結果、私の行った店は蒲団屋であることに気がつく。従って大きなテーブル掛けは蒲団掛けであり、袋と思ったものは枕の布であった。別にきれいな柄のサーリーの下半身の布地を買った。寮生に見せたら珍しがるであろうと思いつつ…。ところで、ネパールではインドルピーの値段で買っておつりがネパールルピーの数でくると損になる。インドルピーはネパールルピーの1.68倍である。トイレに行くと金属の壷が1個、蛇口の下に置いてある。左手(觸手)にて用を足した後洗う為であろう。従って彼等は概して紙を使用しない。9時出発。ヴァイラバの街を過ぎ9時40分、ルンビニー到着。天気のよい日にはヒマラヤが見えるという。ルンビニーは広野の中にあり。チベット人が大勢参拝に来ている。近くにチベット寺院がある。色採り採りの洗濯物があたりかまわず干されている。真赤な唐辛子を一面に陽に晒している。マニ車を回しながら老人が日差しを浴びている。無憂樹ならず、大菩提樹の下にマヤ堂がある。その入口にアショーカ王柱が立っている。石柱の上を飾っていたという馬像は未だ発見されていない。このあたりは一面発掘が残されている。マヤ堂に向かって右手には生誕の釈尊を洗うのに使用したという産湯の池があり、あひるを遊ばせながら清水を滾々と噴き出している。白い小堂内にはイスラムによって削られたグプタ王朝時代(4世紀)の釈尊生誕石造画が中央にあり、左側には新たに製作したものが安置してある。右側には山口秀三郎氏の生誕仏が置かれている。尊顔を削られたとはいえ中央から最も御力がくる。仏教徒はこの御力を仮に偶像に託したのであり、偶像そのものの崇拝ではない。イスラム教徒がいくら仏像を破壊してもこの仏力を奪う訳にはいかないのである。彼等は幾百年にわたって所詮無駄なことをしたと一笑に附したい。さてこの地に釈尊生誕の折に、マーヤー夫人が手をかけたという無憂樹があるかと訊くと無いという。無憂樹は乾燥地に弱く植樹してもなかなか根づかぬという。マーヤー夫人が沐浴し、20歩行ったところで無憂樹の花に手を触れた時、世尊は誕生された。従ってこのマヤ堂は、滾々と湧く泉のところから20歩近い所に建っている。現地の人がヤクの骨の数珠とか、ラーダの黒い実(粉にして石鹸に使用することもできる)の数珠を売っていた。
 帰路、禿鷹の群がりを見る。多分牛の死骸にたかっているのであろう。別なところでは、禿鷹と痩犬と鴉が牛骨を争っていた。鳥羽僧正がそれを見たら新たな鳥獣戯画を描いたであろう。それにしても畜生とても食うて生きねばならぬ…。まこと律文の如く畜生には残骸の苦がつきまとう。世尊出家の一因とされる。
 ヴァイラヴァの街で昼食。通りをみるとみすぼらしい家族が大きな袋を頭から背なに担いで素足で過ぎる。大きな豚が放し飼いにされ道端の泥水を啜り、日ざしを浴びて泥の中で昼寝。再度、国境に着く。またネパール帽を売りにくる。ネパールの青年は陽気だ。やがて、インド領ガンワリヤの遺跡を眺めつつ、午後2時50分、ピプラハワ遺跡に到着。このあたりは平原の中、遺跡が点在し、それが発見を遅らせた一因とのこと。舎利器はニューデリー博物館で礼拝したものの、出土塔にて読経。焼き煉瓦1つ1つには稲穀の跡が無数についている。ここの煉瓦は籾穀を混ぜて焼いたのである。それからも判明するように当時より今に至るまでこの地は米作地帯。この僧院の一角は未だ当時の炭化米が出るという。早速、数人で掘りにかかる。なる程、土に混じって炭化した米が出てくる。その土を中原君が持つ。
 帰路も来た時と同じようにアスファルトの道路の両側に稲穀が延々と干してある。干すことと、車に轢かせて脱穀を兼ねているのかもしれない。この稲は日本と違って陸米。干してあるものは稲粒のみ。その色に2種あって赤籾と白籾とであり籾の色で赤米と白米が見分けられる。赤籾が珍しいので停車して少しもらう。しばらく進むと突然ストップ。税関の検問。日本人と違ってインド人はネパールで時計などを買うと160〜200%の税金がかかる。こういった事態に備えて運転手の助手は妻の土産の時計を柴野氏に預けている。その腕時計にはメイド・イン・ジャパンと刻まれている。このあたりでは日本の名があれば信用されるとのこと。中身はさ程問題ではない。しかし、カプール氏はその腕時計をみて笑う。ネパールで高価に買ったところで、そのニセ時計はインド領内で造られて売られているとのこと。助手はがっくり。インド方面では騙された方が悪いのであるからしかたがない。この税関検閲者は少しでも落度があると必要以上たたくという。警官とても用もないのに停車させて、何だかんだと文句をつけることもあるという。要するにそんな時は若干の金品を渡せばこと足りることもあるという。
 バスは祇園精舎の近くのバルランプールに向う。水牛の群が乾期の水を惜しむかのように池辺でたむろしている。驢馬が道の真中で立往生している。よくみると足を紐で括られて遠くに逃げないようにされている。日本では木に繋ぐけれどもインドでは道路の国樹に繋ぐことはできず、脚を括って休ませるのが木の無い地方の知恵である。道路の並木の国樹はあくまでも国のものであり伐ったり折ったりすることはできない。それでも、夕暮れに少年がこっそり樹皮を剥いでいるのを見かけたという。燃料にするのであろう。白い瘤牛が2頭ゆっくり車を引いている。その牛車の前を栗鼠よりも大きなマングースが横切った。
 午後5時、トイレ休憩。畑の中に行く。今日の下痢者は、大国、井上、森、伊豫田、後藤の学生諸氏。バスには田舎の人々が群がる。昼の弁当が残っていたので差しあげる。子供は遠慮深く受け取ろうとしない。大人に渡すと、その大人にどっと子供たちが群がる。 午後7時半、バルランプールのマヤホテル着。

 1月10日 朝の光にブーゲンビリアがうっそうと花を垂らしている。1時間近く街まで散歩。道の両側に大便の列。雨期には溶けるであろう。その前に豚が食うかもしれない。噛み煙草屋は早朝開店、学校に行けぬ少年が座っている。その店はラーメンの屋台の大きさであり、都会ではその位の屋台がたくさん並び、何でも売っている。しかし彼等は地代を地主に支払わねばならぬのである。家畜のほったて小屋にみえる家も家族が寝起きしている。今の季節はインドとはいえ夜は寒い。上層階級の家々は誠にりっぱ。貧富の差が激しい。
 サヘート(祇園精舎)、マヘート(シュラーヴァスティ、即ち舎衛城)へ出発。午前9時。途中、三道宝階に因むストゥーパを参拝。釈尊が天界のマーヤ夫人並びに天人に説法する為に昇った所である。祇園の香殿から昇った説と、このストゥーパのところから昇った説との2説がある。降りられた地は後日参拝する8大仏跡の1つ、サンカーシャである。
 祇園精舎に到着。広々として全く静寂の園。阿蘭若処とはよく言ったものだ。日本人が平家物語に因んで建立した鐘楼はこの園の遠方にあり、騒音とはならない。しかし、知識者はインドにはかつて無いものを建てたと憤慨する人も多い。尾長猿が数匹走りゆく。かつて日本の女子学生が猿にかまってお尻を噛まれ、柴野氏は病院に運び一苦労したという。何でも狂犬病の如き菌をもつ猿もいるという。
 イスラム教徒(土地の人)が史跡の番をしている。入口よりすぐ右側に釈尊がかつて手を洗い飲んだという井戸がある。老人がたどたどしい日本語を言いながら手押しポンプで水を汲み、皆に手を洗わせる。チップを払う。次に老木、アーナンダ菩提樹がある。釈尊不在の折、阿難の願いにより神通第1の目蓮が一夜にしてブッダガヤから植樹したという。今でも礼拝の対象とされている。道の左側に十大弟子の住所跡があり、やがて世尊の香殿がある。もとは七重の基壇だったという。その標として香殿の入口に七重の小塔が建てられている。ある時、世尊がみえないので大騒ぎとなり、波斯匿王は病に伏し、それ故臣下は等身大の仏像を作りこの香殿に安置したという。それが仏像の始まりとされるが、これはあくまでも言い伝えである。赤煉瓦の前に1人のインド人の比丘が瞑想しつつ寄附を仰いでいた。勤行後、喜捨する。私もこのような阿蘭若処に1時間でも座りたかった。今は時間に追われている。北側に網干善教教授が発掘した所があった。そこら中に古代の土器片が散乱し、クシャーン朝の沐浴場が再現され、水を湛えている。網干教授の指示で発掘を共にしたという現地の人が、古代貨幣をもってくる。親指の甲にも満たないものだが、柴野氏に聞くと10世紀までは逆上るという(現在、寮展示品)。
 舎衛城に行く。牛頭天王社跡がある。牛頭天王の神体は発見されていない。もともと祇園の守護神である。指鬘外道のストゥーパあり。その奥にスダッタ長者の屋敷跡がある。煉瓦造りのその中央の室は黄金の貯蔵室だったという。柴野氏がまだ黄金が残っているかもしれないからよく見て下さいと言う。上から覗いているせいもあって部屋の下までは深く、従って降りて掘る気にはなれない。屋敷跡の左樹下には草座があつらえてあった。どこかの比丘が瞑想したのであろう。
 午後1時、バスでラクノーに向う。国鳥の孔雀が畑に目立つ。ラジャスタンには白孔雀もいるという。相変わらず芥菜の花畑と砂糖黍畑が続く。午後3時半、吉祥草(kusa)らしきものを見る。カプール氏に問うと確かにクシャと答える。臨時停車、採取。噂通り日本の薄そっくり。但し葉にぎざぎざがある。カプール氏は葉に気をつけろと言う。この吉祥草は真言行者が蛇、毒虫の難を避ける為に草座とする。葉のぎざぎざが蛇などを近づけない。チベット密教のポーワ法にも使用する。
 小馬車に10人位満載して驢馬が走る。砂糖黍を山ほど乗せた牛車の後で、子供がその中の1本を引きぬいてゆく。道端でニームの樹と同種のティクの樹の枝で歯ぶらしを作っている。といっても割箸ほどの長さにえだを切って揃えるだけ。小さな部落で遅い昼食。試みに屋台の唐辛子の揚物を食べてみる。流石に辛い。残す。グァヴァの青果を誰かが買っている。青くさい味という。屋台の向うでは吉祥草を刈り取って揃えている。屋根葺に使う為である。子供にはペンの代用となる。涅槃の時、釈尊に敷かれたという吉祥草は別種。
 午後6時半、ラクノーにて夕食。最近虎が山から降りてきて人に重傷を負わせたという。ここは繁華街であり、田舎の闇路とは違ってネオンが眩しい。虎よりも恐ろしい夜の女が多いという。仏典(?)に曰く、虎の傷は一生涯。女の傷は永遠。
 午後7時半、ラクノーの駅にて列車を待つ。バスの運転手とその助手に相当額の謝礼をする。駅前のヒンドゥー寺院では賑やかな礼拝が始まっている。人力車、タクシーの行き交う中、両足の不自由な少年が這いながらやってきて道を尋ねている。タクシーと言っても日本のそれとは大違い、人力車並の小型三輪である。午後10時頃、汽車に乗る。列車泊。

 1月11日 午前5時、ツンドラ駅着。バスに乗りかえる。気温約7度。7時12分、朝日にみとれる。通りすがりの村々では牛糞が筒の半分の形にされてきれいに山積みされて干してある。午前10時、小休止。登校の生徒が群がってくる。10歳位の女生徒の使いふるした布の手提げ鞄の中にはぎっしりと20冊位詰っている。サンスクリットの本をみせてと言うとぎゅうぎゅう詰めでなかなか引き出せない。かたわらではインドの昼顔がやさしく花開いている。
 10時15分、最後の聖地(三道宝階地)、サンカーシャに到着。菩提樹の下に小祠あり。縁由の如く釈尊、梵天、帝釈が奉祀されている。割れた眼鏡を絆創膏で張っている番人の僧はあとで聞くと僧衣は纏っているものの出家者ではないという。象の頭柱(象頭欠損)のアショーカ石柱あり。おそらくはかつて沐浴地であったと思われる窪地に若干水が溜っている。大ストゥーパがあって釈尊の小祠あり。その下では40人程の青空学校。授業中に我々が到着しても子供達が群がってくる。子供が自転車を1台押してきてこれに乗るかと問う。インドの田舎もやっと自転車が普及し始めた。新車は200ルピー位するという。大金だ。金尾君が茶目気を出して早速乗り逃げする。子供が慌てて後を追う。教師も来てしばらく我々を見ていたが子供達に元の場所に戻れと指示している。法顕や玄奘の記録では千余人の僧がいたというが今は青空学校のみの寂所である。ストゥーパ上にて長い最後の読経。供物の他に昨夜列車内で書いた経木塔婆を供す。私も少し持参したものの瑞樹氏は百枚の束を持ってきていたのが大功徳。彼は皆の為にラーメン1箱も持参していた。ストゥーパ上にまともなインド僧がいた。ベナレスで出家したという。名簿にサインして喜捨する。このサンカーシャに人はあまり訪れることがないという。柴野氏も運転手も2度目であった。これよりアグラに向う。途中の沼の中に鶴がおり、岸辺には水牛、豚がたむろし、婦人達はカラフルな布地を洗濯している。行き交うインドのバスは日本では廃車同然の類。屋根の上にあがれるように後部に段がついている。今日見たバスは正面のカバーがない。それでも走っている。村のところどころには市が開かれている。何でもある。広げた売りものの豆に小鳥がいて啄んでいる。主人は敢えて追い払おうとしない。慈悲深いというか、めんどうくさいというか、いちいちきりがないのであろう。
 2時20分昼食。沸騰した水牛の乳を飲む。牛乳より爽やかな味である。大平原には牛の市が真盛り。行き交う駱駝も多い。主より逃げてきた駱駝がトボトボと行き先もなく歩いている。あれだけ担がされ走らされておれば逃げたくもなる。駱駝の気持ちがよくわかる。4・5人で井戸掘りをしている。日中でも日本人のように裸にはならない。朝暮と同じく角巻きのような布地を巻きつけて作業している。午後4時、父なるヤムナ河を渡る。このあたりは白い子馬の馬車(トンガ)が多い。タージマハールに到着。遠くから見えていたタージマハールはムガール帝国第5代、シャージャハンが亡妃の為に建築した白大理石の城である。流石に美しいと見とれつつ柴野氏の一言一言に皆感嘆の声にて仰ぐ。柴野氏は得意満面に年代をつぎつぎと流暢に語る。よくみると彼の掌にペンでいろいろ書きつけてある。カンニングだ。大夕陽が西の白亜の塔に沈まんとしている。城壁に記してあるコーランは黒大理石の象嵌。当時の技術の粋を尽くしている。
 午後7時、ホテル着。エレベーターは例の如く地上は0階。日本でいう2階は1階。もっともである。0階は万物の生滅しつつ繁栄する大地である。0の観念はインドが本家。
 1月12日 6時半起床。赤砂岩のアグラ城見学。10年間かけて造った城。しかし、国費が重なり、遂に王は子に捕らわれ沈黙の塔に幽閉された。壁のあちこちには象嵌細工が施してあるものの、かつて存在したダイヤとか、金張りとかはイギリス植民地時代にイギリス人が持っていったとのこと。金を剥す為に焼いた黒い煤あとが見残に無残に大理石を曝している。王勅の場所は音響効果抜群で5・60米離れても普通の声で聞こえてくる。出口にさしかかると栗鼠が手にやってきて餌を食べる。遠くの岩製の欄干では猿が戯れている。バスに乗り城を去って小休止。象に乗る。象の一歩一歩がごつごつして初めての者には誠に乗りづらい。しかし、虎が避けると思えばありがたい。象皮はぶよぶよとしているがやさしい感覚を放っている。午後3時半、デリー着。インド人に混りデリー街を散策。孔雀の羽根を買うことは禁止されている。午後9時飛行場に行く。11時に発つ。不思議に行きも帰りも高野山大学の英語の先生と同機。挨拶しなければと口に出すと、学生が言う。夫婦同伴で来ているのに水をさすことはないですよ、と。そうかなーと思っているうちに欠礼。

 1月13日午後1時に日本に帰る。翌日、感慨無量の中、祖師廟へ御礼参拝。 合掌