釈尊に対しても同じ想いを感じた

大学院修士過程  中原祥徳
高野山大学学報 No.26 1991/7/1

 1月上旬のインドで、まっ白な負摺を着た一団が仏跡に詣でて、灯明供物等を供え、般若心経、釈尊の真言を専心に唱えておりました。その一団は、高野山大学紫雲寮60周年記念「インド仏跡巡拝と仏教美術研修の旅」(平成3年1月2日〜13日浅井覚超寮監団長)に参加した総勢25名でした。ちょうどインドの乾期に日程を合わせてありましたので、雨もわずかで、本当によいおまいり日和でした。四国遍路や西国巡礼に着る負摺の白さと、背中の「南無大師遍照金剛」も、ひときわ鮮かだった事と思われます。
 さて、旅の内容は、衣体と同じく巡拝の一言に集約されるものでした。一般のパックツアーは、1度の4大仏跡、多くても6大仏跡の巡拝と観光ですが、今回、観光はタージマハール位なもので、ほかはほとんど仏跡巡拝だったといえます。釈尊誕生の地ルンビニー(9日)、成道の地ブッダガヤ(6日)、初転法輪の地サールナート(4日)、涅槃の地クシナガラ(8日)、の4大仏跡はもとより、霊鷲山等のあるラジキール(7日)、第2結集地バイシャーリー(8日)、祇園精舎等のあるバルランプール(10日)、三道宝階降下の地サンカーシャ(11日)の8大仏跡にも参り、更に流量減の尼蓮禅河を渡りスジャーター村へ詣で、前正覚山にも登りました。これら全ての地で、冒頭に述べたようなお勤めをしたのです。
 全ての仏跡を説明する事は無理ですので、ここでは霊鷲山の事を少し述べます。1月7日5時起床、5時45分にホテルをバスで発ち、霊鷲山のふもとへと参りました。夜明け前の道を登りはじめ、うすあかりの中、山頂に至り、遠くを見まわすと、空気中の砂塵は下にただよい、山頂はすがすがしい空気に満ちておりました。山頂には平らな所があり、その西側のレンガで囲まれた一画に釈尊が坐しておられたという事でした。先客の韓国から来られた尼僧の一団が勤行された後、私達も持参した灯明、香、お茶、菓子等をお供えし、黄色い花でつくられた花輪を、インド人より買い求め、お供えしたのです。そして、今まさに陽が昇らんとする時、釈尊座所に向い、東側より坐して、お勤め致しました。日の出を右後方に感じつつ、前讃、観音経偈、般若心経、釈尊真言、光明真言等をお唱えしておりますと、周囲が明るくなるのと呼応するように、安心感が満ちてくるのでした。それはまるで、釈尊が眼前におられる様でした。
 高野山の御廟に入定されている弘法大師を、私達は生けるが如くに感じ、その慈悲にすがる事もしばしばです。仏跡の前で、釈尊に対しても同じ想いを感じたのは、果して私だけだったでしょうか。巡拝に参加した者全て、釈尊の慈悲を感じた事と思います。釈尊入涅槃より2500年、釈尊のみならず、10大弟子、更に現代へとつづく祖師の方々の慈悲は、今にしてなお生きつづけているのではないでしょうか。今回の巡拝は、参加者1人1人が何かを得、奇瑞も多いまことにありがたい巡拝でした。
 この一方、私のような海外旅行がはじめての者には、驚く事もしばしばでした。生水が飲めない事は聞いておりましたが、香辛料の匂いの強烈さ、栄養不足で黄味の白い卵など、現地ではじめてわかりました。そして、日本人観光客の多さ故でしょうか、物売り達の語彙に「じゅうルピー」「ひゃくルピー」「安いよこれ」「見るだけ」「友達」等が出てくるのにも驚きました。しかし、何よりも驚いたのは物乞いの多さでしょう。観光客の行きそうな所はどこにでもいて、地の底から響くような声で「ババー」など、口々に施しを求めるのです。全く、日本的常識が通用しないインドの世情でした。
 最後に、この巡礼でお世話になった方々に心よりお礼申し上げます。     合掌