高野山大学 紫雲寮60周年 インド八大仏跡巡拝  
(平成3年1月2日〜13日)

浅井覚超
高野山時報 平成3年3月11日

 仏跡巡拝(ダルマ・ヤートラ)を企画したのは2年程前になる。周知の如くルンビニー(生誕)、ブッダガヤ(成道)、サールナート(初転法輪)、クシナガラ(涅槃)は4大聖地であり、紀元前3世紀にアショーカ王はラージャグリハ、ヴァィシャーリー、シュラーヴァスティ、サンカーシャの地を加え8大仏跡地と指定した。現在はインド側のカピラ城跡と言われるピプラハワを含めて9大仏跡と呼ぶ人もいる。我々はそれ等の地を隈なく巡り、他に前正覚山を登拝、乾期の尼蓮禅河を歩いて渡り、スジャータ村、苦行林と巡り、またインド最美の大理石城タージマハール、アグラ城、国立博物館、ヒンドゥー寺院等を見学、回想するに強行軍であった。
 巡拝者は浅井覚超、森成正、田中厚博、瑞樹正哲、五十嵐啓道、関根正尊、矢田部信恵、田尻哲玄、金尾英俊、井上隆心、井上武幸、伊豫田光寛、大国弘貢、大島智明、鹿嶋康司、歸山吉生、後藤久彦、鹿本康央、土子信也、中川拓也、中原祥徳、堀川法行、森治政、矢野克典、薮地良弘の25名である。全員遍路用の負摺を着用した。
 以下、紙面の都合上、1月2日から4日までの記録と、並びに所感を述べてみたい。(5日から13日までの紀行は高野山大学々報に掲載予定)。
 1月2日、団結式の後、午後2時過ぎ、バンコク経由便にて大阪を発つ。
 1月3日、午前2時デリー着。鉄砲を担いだ警官が入口に立っている。午前中、デリー、ニューデリー市街を見学する。 古い布を纏った素足の婦人が道路工事の為に鳶を担いで数人よぎる。これ等の人達はまだいい方だ。田舎に行くと異次元の世界に来た光景が目に写る。椰子の木蔭の小さな家、泥の中に横たわる人と牛、ぼろぼろの身なり等々…。尤も我々が案じるよりは力強く生きてはいるもののその貧困の因はどこにあるのであろうか。その一因に身分制度がある。現在においては多くの職業カーストが目に写る。それに対し仏陀の教えは人の平等であり、近年インドでヒンドゥーの階級制度をなくそうと新仏教が誕生した。大勢のヒンドゥー教徒が改宗して新仏教に帰依した。それをインドの上層階級の一部の人々は賎しい人々の宗教として陰口を言うと聞く。それ等の人達こそ自分達の利益のみを考えているのに相違ない。後日参拝したブッダガヤの地などにはスリランカ、チベット、ビルマ、中国、ブータン、日本の寺院がある。これは1956年の仏滅2500年を記念して当時のネール首相の提案で国際色豊かに寺院が建立されるに至った結果である。仏滅2550年即ちあと10余年のうちに高野山真言宗においても釈尊の、遺跡を陰ながら護持しつつ、インドの仏教徒(インド総人口の0.05%)と手をとれるような寺院の建立も必要と思われる。
 一部の人の豊かさを除けばインドは貧しい。我々参拝者に物売りがつきまとう。しかしそれは仕方あるまい。彼等はそれで命をつないでいるのである。最近の読売新聞に8大仏跡を巡ったという某大学教授が日本人は仏跡を観光地化させたと述べていた。日本人は金があるから物を買ってくれるという概念がしみわたっているらしい。或いは浄飯王のカピラ城跡では子供達が焼米を売りに来たり、当時ありもしなかった祇園に鐘楼を寄贈しているというのである。勿論、それらは全て、事実である。ただ、そういった悲憤、批判ばかりに心が奪われていては折角の巡拝も空しくして帰国せざるを得ないであろう。何の為の仏跡巡拝かという目的をしっかりもっておれば、悲憤は覚えても聖地巡礼の喜びは言葉に譬えようもない。尤も祇園精舎の近くにある鐘楼には私も憤慨を覚えたことは事実である。ただ、祇園精舎の中は全くの寂静で遠くの鐘の音など響いてはこない。それで恕せると思った。カピラ城跡では実際に焼土に混った炭化した米を見て満足した。ともあれ、仏跡を巡拝するというそのものの喜びと共に、インドの大自然は旅行者の悲憤などとうてい比べものにならない。それは朝日一つ、夕陽一つみるだけで証明されるであろう。即ちインドの朝日を本尊として日想観を行ずることができる。全く眩しくなく真赤に盥のように大きく美しい日輪である。或いは沈みゆく夕陽にまさに浄土観ができる。帰国してから伊勢の海より煌々と光を放つ朝日を拝んだ時、やはり日本は東の涯の日の出づる国と実感した。
 またインドのどこにでもたむろしている白い瘤牛達は、どのような重荷を引いている時でもその慈眼を消すことはなく、まさに仏の32相の一つ(眼睫如牛王相)を象徴している。これ程の慈眼を私は今まで見たことはなかった。即ちいたる所に仏相を具した白牛がいるのである。インドでは真昼に牛宿が頂天にあるという。天の牛王が世界を見るが如くに牛達には慈眼が備わっている。
 さて、ラージガートに行くとキングコブラとボアを侍らせた蛇使いが壷の中より笛を吹いて蛇をくねらせている。写真を撮っただけで礼金をとられる。彼等はそれで生活している。ただそれを少年にやらせてかせいでいる人達がいるのは社会構造に欠陥があるとしか言いようがない。
 ニューデリー国立博物館に行く。シーリスの大樹が大きな豆の種鞘を雨降らせている。博物館内の奥まった正面にピプラハワ出土のソープストーン製の舎利器が2個安置されている。この博物館ではこの舎利器が眼目であった。近年、カピラ城址として有力視されている歴史的遺物である。合掌礼拝す。最初の身の震える感激であった。
 午後4時過、列車にてベナレスに向う。ベナレスの読みは英国植民地時代からの言い方とのこと。ヴァーラーナシーが仏典通りのインド読み。夜食の弁当に肉が入っていたので私は避けた。夜中に売りにきたカレー弁当を添乗員と一緒に食べた。ものすごく辛くて鈍感な私の口に丁度よい。
 4日、午前5時にベナレスの近くのムガールサライに着く。皆ぐっすり寝こんでいてインドの車掌が大声で我々を起こす。しぶしぶ起きて駅に出ると物乞い、シーク教徒のカラフルなターバン、婦人のサーリー等インドらしいごったがえした光景に出会う。チャエー、チャエーと言って土器つきで茶(ミルクティ)を売りに来る。1杯飲む。次に歯木売り。記念に4ルピーで4本買う。学生は1ルピーで2本買う。差がある。布施したと思えばどうということはない。駅の階段の隅のところどころは真赤に染っている。インド人の噛み煙草を吐く所である。うすら寒い早朝、毛布にくるまっている物乞い達の間をすりぬけて表に出る。やや白み始めた空にブーゲンビリアの真紅が我々を歓迎する。近くのヒンドゥー寺院より如何にも楽しげな大きな音楽が鳴り響く。神を目ざめさせる音楽という。以後、毎朝のように聞くことになる。
 朝食後、鹿野苑に向う。まず迎仏塔を目指す。バスは途中でストップ。ダライラマが法要に来ていて2万人のチベット人が押し寄せており特別事態とのこと。
 人力車を雇って1台に2人乗る。私の乗った力車の引き手は老人、気の毒なこと限りない。デブが2人乗っているものだから必死に引いてもどんどん他の力車に追いぬかれる(帰路は若者の引く力車を選んだ)。
 迎仏塔は5人の比丘が正覚した釈尊を迎えた地。男女の労働者が崩れた煉瓦を修理している。女の人でも土砂をザルに入れ必ず頭上に載せて運ぶ。手に持って運ぶことはしない。日本の若者が1人駈けつけてきた。私達の白衣の負摺“南無大師偏照金剛”を遠方からみつけて「懐しや」と思い走ってきたという。もと親王院にいた橋本君という。我々の一行に彼の友達もいてびっくりする。彼はチベット亡命政府のあるダルマサーラにいたが、ダライラマが当地に赴いたので彼も来たという。ダライラマが初転法輪の地でカーラチャクラ(時輪)の灌頂を行っており、記念のラベルが配布されていた。ラマに蹤いてダルマサーラより、或いは国境を越えて来たチベット人は約2万人、臨時の村ができていた。初転法輪の地はまさにチベット人でごったがえしており、人間だけみるとインドというよりチベットに来た感じであった。仏跡を50回以上案内している柴野氏も「いつも静かな鹿野苑なのにこんなのは初めて」と絶句。多くのテントが張られ律院の大釜のような灯供器がいくつも並べられ1器に多くの太い灯蕊が燃えている。今日はラマの最後の法要という。法要の後か、菓子、菓物、パンなど数時間にわたって人々に投げられている。私は茶目気を出しチベット人に混って供物を拾おうとした。いたるところパンとかお菓子が踏みつけられ散乱している。
 押すな押すなの雑踏のなか、もとの列に戻るのに時間がかかった。百b近く離れていても群衆に対し柑橘類が野球のボールのようにどんどん飛んでくる。ここでハプニングが起こる。ダーメークの大塔の下で瑞樹氏の頭に2度果物が直撃。たまたま彼はバンコクで兜の形をした竹編みの帽子を買ってかぶっていたのが効を奏した。ふらついたものの倒れるには至らなかった。以来、彼はその縁にあやかり巡拝が終るまでずっとその帽子を愛用していた。私は大峯山用の長頭巾をかぶり直した。私とそっくりの頭巾をつけているインド人がいた。イスラム教徒であろう。
 舎利器出土の箇所あり。一帯は赤煉瓦の寺院址であり、その煉瓦の一片をチベット僧が後生大事にもってゆく。ダーメークの大塔(43.6b)では10b位の高さの所にチベット人の白いカタがいくつも掛けられている。足場もなく登りようもないのにどうやって掛けたのか不思議であった。大混雑にて博物館、舎利器を安置している初転法輪寺は臨時閉鎖。明日再び来ることになった。物足りないせいもあって釈尊成道の折の菩提樹から3代目、即ち孫菩提樹の茂るチベット僧護持の釈迦仏のところで勤行。早速日本から持参の供物を供える。
 翌日の舎利器を前にしての供養、読経は釈尊の慈悲の御心が伝わってきてただただ有難く、後々どの仏跡1つとっても去り難い感に襲われた。
                           (高野山大学紫雲寮寮監)