(十一)十一代斉順(なりゆき)公 ぜい沢三昧に流れ濫費その極に達した

1.生い立ち
 10代藩主治宝には、世継の男子なく、11代将軍家斉の第7子斉順を四女豊姫の聟養子に迎えた。斉順は母は、梶氏、享保元年9月9日生。

2.治績

(1)江戸にならう日常生活
 文政7年(1824)治宝老いて隠居をするため斉順24才で11代藩主となった。しかし、西浜御殿の治宝が事実上藩政の実権を握ったため斉順は名目上の藩主にすぎなかった。
 宗家との関係は愈々緊密化し、華奢丁重の風益々倍加した。時世は泰平、大江戸の地より君臨し、溜塗挾箱および惣塗網代駕篭を許されてからその行列は将軍のそれとほとんどかわりのないものとなった。また従来の和歌山城の狭隘を嫌って天保3年(1832)湊御殿を造り、ここで政務をとった。その構造は、江戸城本殿に擬し、庭に数千の珍禽佳鳥を養い、左右の侍臣百人以上に上る鄭重さで、当時台所が1カ月間に用いた鰹節の費用概ね三百両という。藩士邸宅の改造となり、道路幅員の拡張となって、南竜公以来の質実にして惇朴な風はあらたまり、このように治宝、斉順がぜい沢三昧に奢を極め、才出の濫費その極に達した。しかし、一面紀州の威望を輝かすと共に町並の活気を呈することもできた。

(2)天保の飢饉
 天保5年(1834)気候不順で天保の飢饉が発生した。この時も、天明の例にならい窮民救済のため、湊河川の浚渫の工事を起こした。

3.御逝去と遺品と御廟

(1)逝去
 弘化3年(1846)5月8日46才を以て歿した。諡して顕龍院という。

(2)遺品 なし

(3)藩主御廟
 碑文 顕龍院
 法量 棹石 262センチメートル
    台石 三段 153センチメートル

夫人御廟
 鶴樹院 治宝公第四女
 弘化2年(1845)8月15日没
 享年 45才
 献灯篭 9基

(十二)十二代斉彊(なりかつ)公  緊縮政治を計ったが年半ばにして没する

1.生い立ち
 斉彊は、将軍家斉の第21男で母は吉江氏(本性院)文政3年4月28日生れである。先代斉順の弟にあたり妻は近衛忠煕の女で豊子である。

2.治績

(1)借上げ米、浮置歩増を中止
 弘化3年(1846)閏5月8日藩主斉順が死亡したため養子となって年27で紀州藩をついだが老公治宝尚健在で政を掌握し、安藤、水野の重臣等がこれを助け、天保9年(1738)以来継続していた藩の借上げ米、浮置前増を中止した。

(2)和歌山城天守修築
 弘化3年7月和歌山城に落雷、天守櫓を炎焼したが治宝の請願で稀有の大工事であったが嘉永2年(1849)上棟式、同3年完成した。
 斉彊は、当時上下が漸く前代の驕奢に飽き、政治の緊縮を望んでいるのを見て質実、簡素な安永、天明の時代に復そうとしたが果たすことはできなかった。

3.御逝去と遺品と御廟

(1)御逝去
 公は、治世僅か4年で、嘉永2年(1849)3月1日、年30才で没した。諡号、憲章院という。

(2)遺品
 斉彊揮毫の画「小督の局」
 奥方使用の鼻紙台がある

(3)藩主御廟
 碑文 憲章院
 法量 棹石 262センチメートル
    台石 三段 153センチメートル
 献灯篭 12基

夫人御廟
 嘉永6年2月10日没 32才
 碑文 観如院
 法量 棹石 160センチメートル
    台石 100センチメートル
 献灯篭 2基

(十三)十三代慶福(よしとみ)公  13才で将軍家茂(いえもち)となる

1.生い立ち
 慶福は、斉順の遺腹で、母は、松平氏女実成院である。弘化3年5月(1846)出生、弘化4年(1847)4月藩主斉彊の養子となった。嘉永2年(1849)3月斉彊が没したため僅か4才で13代藩主となった。

2.治績

(1)異国船に備え海岸警備を行う
 嘉永4年(1851)大砲鋳造、6年7月武備手当金を下付、7年正月和歌山海岸武備手当金を下付、7年正月和歌山海岸防禦持場を決定した。9月には和歌山近海へ異国船が渡来人数をさしつかわす。11月友ヶ島奉行を設置、安政元年(1854)9月15日始めて異国船が紀伊水道を北上した。ロシアの使節プーチャチンが和親通商条約締結のため函館から大阪を目指す途中であった。大崎の見張番所(つぶねの鼻)のろし台(荒崎)砲台(田ノ浦)が設置されたのはこの時である。

(2)田辺与力騒動
 安政2年(1855)6月田辺与力に安藤家家来となるよう命じたが3年2月、古参与力は、これを不服として田辺与力騒動が起こったが長保寺住職の助力もあって松阪御城番となって再出仕することゝなった。

(3)13才で将軍家茂となる
 「癇癖将軍」とあだなされた将軍家宣の継嗣問題では、一橋慶喜と対立、水野土佐守、井伊直弼等の南紀派に推されて5年6月家宣の世子となって江戸城に移る。7月家宣が逝去したため名を家茂と改めて、10月14代将軍となる年僅か13才であった。

(4)公武合体論
 この頃、時は幕末、日本の政治情勢は大きなうねりと変革の波にゆすられていた。即ち、尊王攘夷運動は時を経るにつれて倒幕運動の色を濃くして行った。これを食いとめるためには朝廷と幕府が結びつくしかなかった。「公武合体論」である。文久2年(1862)2月将軍家茂のもとへ孝明天皇の妹和宮が降嫁された。15才の同じ年、幕府の危機を救うための政略結婚だった。だが効果は上らず倒幕運動は激しくなるばかりだった。
 14代将軍となった家茂は慶応2年(1868)5月第2次長州征伐に出陣、翌年7月20日病没。

3.御逝去と遺品と御廟

(1)御逝去
 大阪城中で病没された時、年21、御遺体は海路江戸に運ばれ、芝増上寺に葬られた。諡して昭徳院という。

(2)遺品
 幼少の頃、玩具として使われた水晶の小犬と、夜具として御使用の布地が保存されている。

(3)御廟
 芝増上寺