(九)九代治貞(はるさだ)公  西條家より疲弊の紀州を再建

1.生い立ち
 安永4年(1775)2月3日、紀州徳川家8代藩主重倫が30才で隠居した。このとき長子岩千代(治宝)はやっと5才になったばかり藩主を継ぐにはあまりにも若すぎたため支藩の伊予西條藩主松平頼淳を後継者に指名した。頼淳は吉宗の後を継いだ6代藩主宗直の次男で母は、外山氏女善修院で7代宗将の実弟である。将軍家治から「治」の一字を賜り治貞と改名した。この時すでに西條藩5代藩主として治世23年の善政を敷いた48才の分別盛りで、今出川誠季の女を妻としていた。

2.治績

(1)「今の世に過ぎたるものが二つある……」
 紀州の治貞公と肥後の細川重賢公の二人の善政を世の人々は並べ賞して「今の世に過ぎたるものが二つある。紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と謡った。紀州にとっての救世主が始めてあらわれたのである。

(2)卒先倹約行政の推進
 安永5年6月始めて和歌山城に着いた治貞は直ちに藩政の改革に乗り出した。この時の焦眉の急は、宗将、重倫の散財で赤字を抱えた藩財政のたて直しと民力の休養であった。吉宗の例にならって京橋に訴訟箱を備え、下意上達をはかると共に代官、奉公に示すに「上の御為のみを思わず、下々の痛まざるよう」と懇諭した。又民力の休養の第一は、節倹を尊び、奢侈を禁ずるにありとして厳に国費を省略せしめ、自ら綿衣粗食に甘んじ、朝食は、一菜、夕食も干魚と漬物、冬の暖房は部屋に4個あったものを一つに減じ、座布団も用いない等卒先範を示すと共に城中女子の社参、見物の晴衣裳なども木綿染紋付と質素を極めさせ、子女の振袖も漸次きりつめられ質朴な古風に復すと共に、又吉凶贈答の品は全て銀幣又は手券を用いさせた。これが今日の商品券のはじめである。また櫨、木綿の殖培をすゝめ綛糸の振興につくす等民福の増進をはかった。倹約令も度々出し、安永6年には村役人に頼宣の父母状を持たせた。安永5年6月の幕府拝借金3万両の7年延期が認められたが天明2年には更に2万両を拝借している。治貞は、徹底した倹約で財政再建を計ったがこの頃から天明の大飢饉が始まり、5年には17万石余の損失が出た。6年には窮民事業として和歌山城の堀ざらえを実施、7年には、日高、熊野の山中で救米を行ったらしい。将軍への献上物も6年間省略し、家中半知についても実施した。

(3)学問の振興
 また、儒者、伊藤蘭嵎、祇園尚謙らの講釈を聴くことを家臣に命じた。本居宣長には下層民救済の方策として「玉くしげ」「秘本玉くしげ」を上呈さした。
 天明8年10月には「百姓教訓追加」などの書を1000部、民に配布した。治貞は、教養人でもあり、安永5年(1777)頃には孔子の学問についての書「慎終論」6年には養子にした先代重倫の長子治宝に対して大名としての心がけを書いた「五慎教書」(1.物にこりなずむべからざること。2.諌言を言う者を嫌うべからざるのこと。3.美服を好むべからざること。4.厚味をたしなむべからざること。5.芸能を誇るべからざるのこと。)7年には又、家臣の教訓書「童子訓」を著している。

3.御逝去と遺品と御廟

(1)御逝去
 在封15年、幾多の治績を残して寛政元年(1789)10月26日、江戸上屋敷で62才の生涯を閉じた。家臣の信頼と領民の敬慕を一身に集めていた名君の死は和歌山の城下を深い悲しみにつゝんだ。諡して香厳院と言う。逝去後御遺体のまま11月28日、紀州長保寺へ埋棺された。

(2)遺品 なし

(3)御廟
 碑文 香厳院
 法量 棹石 180センチメートル
    台石 3段 168センチメートル
    献灯篭 13基

(十)十代治宝(はるとみ)公  政治文化の極盛期招来

1.生い立ち
 治宝は、8代藩主重倫の第二子として明和8年6月18日誕生、第一子は早逝、先代治貞に子なく、その養子となっていた。母は、佐々木氏女澄清院である。天明7年(1787)将軍家治の養女種姫を迎えて正室とし、寛政元年(1789)9代藩主治貞が没したため12月、19才を以て10代藩主に就任、治宝と改名した。

2.治績

(1)節倹を督励
 先代以来の窮迫した財政を継承して上下の節倹を督励し、寛政4年半知を中止、家中に禄高の2割ほどの浮置米(借上米)に変更した。

(2)学問の振興
 この公の治績の最も特筆すべきことは、学制の振興と文物制度の煥発であった。本居宣長を召し出して五人扶持を与え松坂住とした。
 寛政3年(1791)治貞の意をうけて大いに藩学を拡張し、8才以上30才以下の藩士子弟の就学を義務的とし、聖廟を設けて春秋釈典挙行の例を始めたが翌4年、藩立医学館を開設して市郷医師子弟の教養に資し、ついで江戸明教館(寛政4年)伊勢松坂学校(1804)を起した。また文化3年仁井田好古、本居大半以下に命じて「続風土記編修」に当らせ、弘化中には加納諸平に「紀伊国名所図会」後編を撰せしめた。ことに寛政4年(1792)伊勢松阪に住した本居宣長を招聘し、この地に国学を流布せしめたのは文学史上看過することのできない事蹟であった。
 文化13年(1817)将軍家斉七男斉順を聟養子に迎えた。

(3)茶道、陶芸等の振興
 公は、文雅を愛すると共に、衣紋有職の道にも通じ、茶道の如きは千家につきてその奥儀を極め、書画、音楽にと頗る多能多芸の殿様であった。
 別邸、西浜御殿で焼かせた偕楽園焼をはじめ、京都西陣から職工を呼んで御庭織、御庭塗の工房を設けた。中でもお庭焼は有名で京都から楽旦入、仁阿弥道八、永楽保全、久楽弥介らが招かれており、治宝や側近の手造りとされる作品も残っている。この外和歌山の各寺院は勿論、日高に及ぶ寺院に納められた扁額は悉く公の親筆になるもの多く各仏殿を飾る貴重な記念物となっている。祇園南海、野呂介石、桑山玉州など紀州文人画家も生まれた。このようにして紀州芸術の後世に伝うべき特異なもの多く治宝公の賜に他ならない。

(4)町並改善
 公はまた、紀州藩が御三家の重きにありながら外観体裁を整えぬのは著しく威望を損するものであるとして新に官制、職名、礼式、等幕府にならって改め、邸宅の造作をも替えさせたため城下の武家屋敷は、今迄の粗末な土塀、玉垣から長屋門、なまこ壁などその壮麗さは江戸の旗本屋敷を偲ぶ程になった。

(5)藩政をゆるがした農民一揆
 かくして政治文化の爛熟期を迎え、権威の絶頂期にあった治宝を驚かしたのは思いもかけない百姓一揆であった。
 文政6年(1823)紀州路は春先から大旱魃に見舞われた。特に紀北地方の被害はひどく、紀の川沿いの田畑の作物は根こそぎ枯れ上がった。一揆のきっかけは、農民にとって命より大事な農業用水の水争いであった。5月下旬名草郡の百姓一揆に起り、ついで那賀、伊都、三郡に蜂起して、伊都、那賀一揆は貝、鐘を鳴らし、むしろ旗、竹槍を掲げて所在の役所をこぼち、その数合して数万道を分って城下に迫る勢を示したが藩は、栗林堤に防備を施してこれに備え、6月中に全く鎮定した。藩は治宝の名で「作付できない田畑の年貢を免除する」の触れを出した。惨事は、何とか回避できた。農民の要求は、「年貢を藩祖頼宣時代の率に戻すこと。新田を開いた場合の年貢を免除すること、藩の仕入れ方廃止」など7項目であった。紀州の年貢は6割を藩に納め、民百姓に残る4割の中から更に百石につき2石の「二分米」と1斗9升の「糠藻代米」を供出をさせるなど様々な名目で徴収されていた。新田については、開発奨励策として紀州で3年、伊勢で5年間無年貢だったが治宝の時代になると役人がすぐに新田の検地をし、年貢を課するようになっていた。また商品の流通販売ルート独占は農民達から副業収入を奪い、町人には不当な高価な商品を売りつける結果を招いていた。藩は、「年貢の率を元に戻す、仕入方は農民の難儀にならないよう取りはからう」と回答、農民の要求は一応認められた。しかし一揆に加わった280人余りが召し捕へられ、6月27日、伊都郡名倉村の仙蔵ら33人が処刑された。
 かくして公は、文政7年(1824)6月6日54才をもって藩主の座を退き隠居することゝなったが一揆の責任をとったものともいわれている。

3.御逝去と遺品と御廟

(1)御逝去
 公は、嘉永6年(1854)正月7日、82才の高寿をもって逝去する迄11代藩主斉順を助けて政務をとった。位人臣を極め従一位となり諡して舜恭院という。
 
(2)遺品
 自筆の書画、念持佛、自詠の詩、茶道具、関連する陶器類等多数長保寺に所蔵されている。

(3)御廟
 碑文 舜恭院
 法量 棹石 262センチメートル
    台石 三段 152センチメートル
 献灯篭 12基

治宝公夫人
 将軍家治公養女貞恭院
  寛政6年正月8日(1794)没
 享令 29才
 法量 治宝公とほゞ同じ
 献灯篭 15基