(七)七代宗将(むねのぶ)公  病弱で治績は上がらなかった

1.生い立ち
 宗将は、宗直の長子で、母は服部氏の女永隆院で享保5年江戸青山の御殿で生まれた。宝暦7年(1757)7月2日夜、宗直が紀州江戸屋敷で亡くなったため宗将は8月7日、年38で7代藩主となった。吉宗より一字を与えられ、宗将と称した。紀州への入国は、宝暦8年6月23日である。

2.治績

(1)日蓮宗を禁止
 就任直後の宝暦7年10月「日蓮をくじく」を著わし、藩主一族は日蓮を今後禁止することとし、同宗寺院安置の霊牌を全部上野真如院へ移遷した。これは、寛延4年(1751)伏見宮貞建親王の女順宮(浄眼院)が病気となったために甲斐の日蓮宗久遠寺へ祈祷を依頼したところ、住職が「祈祷はするが生命の保障はできない」と言ったため、それに立腹しての処置だったといわれている。順宮は、宝暦7年5月に32才で死亡しており、それもあってのことであろう。宝暦9年(1760)7月には、前関白一条兼香の娘愛(ちか)君(明脱院)と再婚している。

(2)仏道に帰依
 公は、深く仏道に帰依し、江戸増上寺をはじめ、高野山諸寺院に寄付することも多かったが財政窮迫のため国内の疲弊も少なくなかったという。

3.御逝去と遺品と御廟

(1)御逝去
 宗将、性来病弱で、宝暦6年病のため江戸に帰り、終に紀州に帰らず在位7年目の明和2年(1765)2月25日赤坂の藩邸で没した。3月2日谷中感応寺で火葬に付され遺骨は長保寺へ埋葬され時に46才、藩政上の格別な事績もないまま没した。諡して菩提心院という。

(2)遺品は、収められていない。

(3)藩主御廟法料
碑面法名 このときよりはじめて法名が刻され「菩提心院」
棹石 162センチメートル
台石 6段 162センチメートル
献灯篭 36基

このときから夫人墓始めて長保寺に建つ。
前夫人の墓
宝暦7年 32才没
碑名 浄眼院
棹石 190センチメートル
台石 2段 117センチメートル
献灯篭 24基

後夫人の墓
碑名 明脱院
棹石 190センチメートル
台石 2段 117センチメートル
献灯篭 29基

(八)八代重倫(しげのり)公  領民哀れ、大殿様の暴虐

1.生い立ち
 重倫は、宗将の次子で母は吉田氏女清信院で延享3年(1747)2月28日江戸に生まれた。幼名を岩千代という。明和2年(1765)2月に宗将が死去したため年20才で8代藩主となった。

2.治績

(1)狂暴治まらず隠居を命ぜられる。
 家臣、側室の別なく刃をふるう狂暴な大殿様として領民から恐れられた。明和6年(1769)には財政政策の失敗を理由に本来藩主が手を下すべきでないにも拘らず二人の奉公を自ら手打にし、或時は、新刀の切味を試みるため角力取りを城内に呼びこんで殺害したり、又或時は、臨月の女の胎児がどのように入っているかを見たいと城内に呼び入れて腹をさいたりした。また明和8年(1771)12月10日側室の澄清院を切り殺した。澄清院は、この6月重倫の男子岩千代(後の治宝)を出産したばかり、同じく殺害されそうになった岩千代は侍女にかくまわれて危く難を逃れた。これは別の側室が澄清院と同じ日に男子を生んだが母子共に直ちに死んでしまったので、これをあわれと思い元気な澄清院母子に刃を振う暴挙に出たものであった。その後安永4年(1776)夏のこと江戸麹町の紀州藩邸の向い側にある松平出羽守屋敷の納涼の賑わいをみて、紀州藩邸を物笑いにしているものと邪推し、その屋敷へ花火を大砲がわりに打ちこんだという。この他狂暴な行動が幕府に聞こえ安永4年(1775)2月3日に、国篭隠居を命ぜられ、治政僅か11年であった。

(2)隠居の日々
 湊御殿に隠居した重倫は、百姓や町人を隠居付家臣として高禄で召し抱え総数は、通常の3倍ほどの1075人に及んだ。その中ではとりわけ伊賀(隠密)者が多くを占めていた。先代が病気のため6カ月に及ぶ経費は少なからず、領内で聚めたものを江戸表で散じた為領民の血税を枯らし、その怨をかもしたのに歴代相ついで暴政を敷き民力の疲弊その極に達していたといわれる。

(3)徳本上人に救わる
 その頃有田郡須ヶ谷の山上で修行三昧にあった徳本上人との出会いにより殿の病気は多くの重臣、婦女をお手打ちにした良心の苛責であることを見抜いて説教を行った。殿は上人の霊徳に感化されて漸く平常心に戻り過去の重なる悪行を反省し、上人に帰依して11年後の天明6年(1768)剃髪出家して大真と号し静かな日々を送ることゝなった。
 発心した重倫が重臣等殺害した人々をとむらうため建立した供養塔が海南永正寺に建てられている。

3.御逝去と遺品と御廟

(1)御逝去
 文政12年(1830)6月2日、浜御殿にて逝去、年84才、観自在院と諡した。
 しかしこの公の埋葬について福蔵院住職の記憶によれば公生前の行跡があまりにも常軌を逸したものであった為、埋葬後の災いをおそれ福蔵院墓地の片隅で馬と共に火葬に付された後遺骨を御廟に埋骨したとのことで火葬の場に立てられた五輪塔は今も残っている。

(2)遺品 なし

(3)御廟
 碑銘 観自在院尊像
 法量
 棹石 260センチメートル
 台石 4段 163センチメートル
 献灯篭 10基