(二)二代光貞(みつさだ)公  文化人光貞、寺院建立

1. 生い立ち
 光貞公は、寛永3年11月11日、理真院を母として頼宣の長子に生まれた。幼名は、長福丸といい、将軍家光より「光」の字を賜り光貞と称した。明暦3年(1658)2月26日入国し、同11月26日伏見貞清親王姫天真院を正妻に迎えた。元禄11年(1669)4月22日隠居する迄治世、32年であった。

2.治績
 光貞は、父頼宣の隠居の後をうけて寛文7年(1667)5月、42才で家督をついだ。

(1)文芸文学を振興し、自らも丹青の道に励んだ
 藩政は、すでに機構化され、光貞の親政は、ほとんどなかったらしい。光貞は、人と爲り顛秀で勇剛、武を尊ぶこと、父の威風があり、また文学を好み、儒臣に命じて律書を講じ、明律を訳せしめた。紀州に明律の存すること、光貞に始まるという。また丹青の嗜み深く、狩野興益に教えをうけて水墨の画をよくした。

(2)農政改革、新田開発等の推進
 元禄4年(1691)末には会所(勘定所)主導の農政改革を進め、百数十の農村法令を出すと共に大庄屋などの権限を拡大し、検地の実施、定免制の採用、潅漑施設の整備、新田の開発などを行った。かくして治世32年にわたり、よく治まって民その徳になついた。

(3)光貞批判の「長保寺夢物語り」
 しかし、頼宣に比べ光貞の治世には藩士の一部に不満の気持なしとはしなかった。元禄3年(1690)頼宣の近習、浅井駒之助が藩の行政を批判する建白書を提出して伊勢、田丸に幽閉された。駒之助は、かって頼宣の側につかえていたことから長保寺で頼宣の菩提をとむらうため、法事のとりしきり、墓守などをしていた。物語は、駒之助の同僚だった的場源四郎の幽霊が頼宣の使としてあらわれ、光貞の治世について語る形式をとっている。「日頃信心もしないのに四代将軍家綱に若君が生まれるように伊勢に参詣している。上級家臣の驕りをそのまゝにし、下級家臣に厳しすぎる・・・・・」のようなものだった。駒之助が田丸に流されて4年目の元禄7年(1695)自ら食事を絶って果てた。

(4)父の遺命により長保寺へ500石
 光貞は観寛文12年父の遺命により長保寺へ500石を寄進した。同時に一品親王より、本坊に「陽照院」の称号を頂いた旨の通知書を交付した。

(5)御母堂よう林院御追福のため報恩寺建立
 光貞公が寛文6年(1666)1月24日江戸で逝去された母君、父頼宣公夫人、加藤清正公第5息女「八十姫」よう林院御逝去追福のために報恩寺を建て徳川家菩提所と定め、寺領250石を寄進して光貞公夫人天真院の御廟もここに祀った。

3.御逝去と遺品と御廟

(1)御逝去
 光貞は、元禄11年(1698)4月隠居して別邸西浜御殿を造営し、ここに移ったが宝永2年(1705)8月、享年80才をもって和歌山で没した。諡して清溪院という。

(2)遺品
 今遺品として蔵されているものは、下の通りである。
○梅の図 ○馬の図

(3)御廟
 先代の丸墓に対し、角石塔の墓で同じく碑面には戒名は刻されていない。
 法量 棹石、255センチメートル
    台石、3段375センチメートル
    献灯篭、12基

(三)三代綱教(つなのり)公  将軍の姫を正妻に、長生すれば或は将軍に

1.生い立ち
 綱教は、光貞の長子で母は、山田氏女瑞応院である。寛文5年8月26日に出生。幼名を長光丸、長福とも言った。4代将軍家綱から「綱」の一字を賜り綱教と称した。5代将軍綱吉には、鶴姫、徳松の2子がいた。徳松は天和3年(1683)5才で死し、このことによって「生類憐れみの令」が発せられることとなり、宝永6年(1709)に綱吉没する迄続くこととなった。この間紀州の藩主は、二代光貞から、綱教、頼職、吉宗と4代にわたった。

(1)五代将軍の姫を正室に迎う
 綱教は、将軍綱吉の姫、鶴姫を迎えて室となし、元禄11年4月22日父光貞の隠居により34才を以て三代藩主となり、元禄12年5月15日入国した。
 鶴姫との婚約が成立したのは、綱教17才、鶴姫5才であった。領内の商家の「鶴屋」の屋号を廃せしめ、鶴の紋を雑具に入れることも禁止した。しかし、宝永元年(1704)には鶴姫が28才で死去したため将軍家との縁は切れることとなった。鶴姫は、明信院の諡号で江戸増上寺へ葬られた。その後も将軍家への遠慮か側室をおかなかった。

2.治績
 先代に続けて会所(勘定書)主導の農政改革を進めると共に、音信贈答の制を改定し、冗費の節約に力めて経済の道に心がけ、専ら倹素を尊ぶことを基本とした。

3.御逝去と遺品と御廟

(1)御逝去
 公は宝永2年(1705)5月14日、治世僅か8年で和歌山で没した。時に年、41才諡して高林院と言う。その若き死には疑問も多いとされている。(県史)

(2)遺品
 綱教公葬儀に際し、日常御使用の諸道具を長保寺へ奉納した目録が残っている。御太刀(備前吉平)など434点に及ぶが現物は存在しない。

(3)廟墓
 墓石は、角石塚であるが碑面には、やはり刻字はない。
 法量 棹石、180センチメートル
    台石、2段123センチメートル
    献灯篭、12基

(四)四代頼職(よりもと)公  就任後100日足らず治世は緒にもつかなかった

1.生い立ち
 頼職は光貞の第3子で、母は宮崎氏女真如院で延宝8年正月17日に生まれた。綱教には子がなかったため、養子となり、宝永2年(1705)6月18日、兄綱教が死去したため26才で四代藩主となった。この年、父光貞が病にかかったため江戸にいた頼職は昼夜兼行で紀州へと馳せ帰り、その臨終に会うことが出来たが自分もまたその疲労で病気となり、同9月8日就任100日足らずで和歌山城内で急死することとなった。

2.治績と逝去と御廟
 享年僅か26才、在封も3カ月に満たなかったため、治績は残っていない。この早すぎる死にも疑問の残されているところである。この後用達内藤忠之、小姓渥美久忠、大番三井高清が剃髪、翌3年4月、5代藩主吉宗により知行召し上げの重罰に処せられた。頼職にも子なく、吉宗が藩主の座を継ぐこととなった。深覚院と諡す。

3.廟墓
 廟墓は、角石塔で、碑石の刻名はない。
 法量 棹石、180センチメートル
    台石、2段118センチメートル
    献灯篭、12基