3.紀州徳川家

(一)初代頼宣(よりのぶ)公 僅か18才で入城

1.生い立ち
 頼宣公(幼名は、長福丸、頼将)は、家康の第十男で母は、蔭山氏広の女、阿万、慶長7年(1602)3月京伏見城で生まれた。この時家康すでに61才であった。幼時より資性賢明で、父家康にとりわけ可愛がられた。公の一代記の中で、大阪冬の陣の折、総攻撃の先鋒を望んでいたところ、和議が成立して戦斗に参加し得なかったことを残念に思い「惜しいことをした」と残念がったとき、重臣の松平正綱が「殿はまだお若いからまだまだ将来が楽しみです」となぐさめると「14才の時が2度あるか」と言って家康を感心さした話は有名である。
 公は、弟の身でありながら官位、知行等兄とかわることはなかった。
 慶長8年11月、2才にして家康五男である武田信吉の遺領の水戸が与えられ、所領高20万石、9年12月には25万石に加増、同11年元服して常陸介と称し、同14年駿河遠江50万石に転じ遠江宰相といわれた。

(1)父家康の死去と公の妻帯
 元和2年(1616)4月17日公15才の時、父家康は75才で歿した。このとき母お万の方は、40才であられたが御剃髪された。
 家康病床にあった時、公を枕辺に呼び、「予が歿すれば、先づ久能山に葬り、三年後、日光へ移すべし」の遺命があった。この為公は、3年間駿河に居城し、久能山で家康の霊を祀った。紀州への転封がきまったのは、この3年の喪が明けた後であった。
 元和3年(1617)正月、宗門の女傑お万の方の懇請で、武人の典型である肥後加藤清正公の五女八十姫(瑶林院)を駿河の公の許へ正室に迎えた。瑶林院の次弟が清正の家督をついだ忠広で頼宣には義弟にあたる。後日、忠広が将軍家光の弟徳川忠長と親しかったことにより、外様大名とりつぶしの犠牲となり、肥後は没収され、出羽庄内(山形県)へ配流となるが頼宣の口添えがあったのか配流の地で1万石を与えられるという事件もあった。

お万の方


(2)青年藩主和歌山城入り
 約370年前、元和5年(1619)紀州藩主浅野長晟を安芸に移し、紀州77郡に勢州の内、伊勢8郡18万石を加え、55万5千石の新しい紀州藩主として、南海の要衝その他さまざまな思惑がからんでの紀州入りであった。
 晴れの行列は、重臣、安藤直次、水野重央、久野宗成、三浦為春の同道は勿論、御母君養殊院様、御廉中瑶林院(19才)も含め、お供ぞろい総勢2千人、各自身分相応の服装で威儀を正し、道々町人百姓が土下座する中を「下えっ、下えっ」の警蹕の声で粛々としてお国入りが行われた。このあと尼公は直ちに家康公の冥福を祈るために引返して甲州身延山へ登られたが承応2年8月21養殊院様77才を以て薨ぜられた。この時頼宣52才であった御遺体は8月25日荘厳な行列で紀州家江戸屋敷お浜御殿(尼公のお住まい)を出立、甲州大野山へ向われ、御茶毘に付せられた。

2.治績
 公は、入国直後、直次に田辺領、重央に新宮領を与え、それぞれに与力もつけて独自の支配を許可した。
 公の入国の翌、元和6年(1620)12月始めて参勤しているが、幕府は、その後これを制度化し、諸大名は、1年おきに江戸へ参勤し、妻子を証人として江戸に住まわせることにした。
 公、寛永期には、更に諸国の浪人達に門戸開き、武芸に秀でた武士を中心に召し抱えて家臣を増強、能力のある者を重く登用した。このため紀州藩には福島正則の旧臣浪人達が続々集まった。
 万治3年(1660)正月には熊野の事件を教訓にして農民に対する教訓書を李梅溪が案を作り、頼宣がまとめたといわれる「父母状」梅溪が浄書してあまねく領内に配布し、各戸の障壁の間に掲げさして人心をいましめたが風教に資するところ大なるものがあった。公入国の始めは主として軍職を制定し、次第に諸般の制度を布き、専ら藩治に意を傾け、荒れた寒村には産を与え、雑税を省いて殖産の道に力を尽した。即ち、有田みかん、黒江の漆器、保田紙、布引の水瓜、竜神の温泉、矢櫃の漁業の振興等枚挙にいとまなく、今に公を神として祀っているところもある。公又深く学を好み、李梅溪、那波活所、その子木庵、呉五官、永田善斉、荒川景之等を儒臣として藩政を諮議せしめ、時に詩文を唱和してこれを楽しんだ。他に茶人、千宗左を招いて茶道を広め、能楽家なども多数招聘して文化の振興をはかり藩政の基礎は全く定まった。

(1)長保寺を紀州徳川家の廟所に
 入国以来47年目の寛文6年(1667)公が熊野巡見を終えた帰途熊野古道のかぶら坂から西方はるかに淡路、阿波を望むしかも三方山に囲れ、その懐にいだかれた長保寺を見られたとき、公の脳裏をよこぎったのは恐らく久能山の要衝であったであろう。公は、下って長保寺に立ち寄られ、その由緒に感じ、かつ要害堅固であり、万一非常の場合の戦略的要害のことなど考え、すでに候補地として上っていた大同寺(和歌山)善福院(下津町)の中から長保寺に決定天台宗に改宗して廟所と定めた。この遺言状は、今も長保寺に保存されている。 

(2)支藩伊予西條藩を創設
 寛文7年(1667)10月に頼宣は家督を光貞に譲って隠居、寛文10年(1670)次男頼純を分家大名として支藩伊予西條3万石に封じた。これが支藩西條家であり、紀州家と西條家の関係は、徳川宗家と御三家の関係と同じである。

(3)廟所の現状
 廟所は、長保寺境内東方、老木の生い繁った西向きの斜面一帯が巨大な廟所を形成し山の面積は、約3.4ヘクタール、南向きの斜面が主として奥方のもので、南東向きが主として藩主の墓地である。ここの墓地には、宗家を継ぎ将軍となった5代吉宗と13代慶福公の外、初代から17代頼韶までの諸公と歴代夫人、側室、子息の墓碑28基と供養塔2基、献ぜられた石灯篭330基が竝び、江戸初期から末期に及ぶ壮麗豪華な石造工芸品の遺跡であり、徳川御三家の雄藩としての紀州家の威勢を示したものと見ることができる。それでも初代から6代宗直に至る迄は世情必ずしも安定せず墓地のあばかれることをおそれ碑石の刻名はされなかった。しかも昭和10年頃まで墓域への庶民の立ち入りは、8月15日の他は許されなかったが今では、この廟所は、国史跡として保存されている。このように長保寺が廟所となったことにより浅野家の寄進と併せて、寺領505石の大寺院となった。
 このように、当初長保寺は廟所で、和歌浦雲蓋院が菩提寺であったが明治3年すべての諸公の位牌を長保寺へ移し、長保寺は以来菩提所となった。

(4)御霊殿と客殿
 長保寺大門をくぐってすぐ右に折れると藩主参詣のため設けられた細いお成り道があり、お成り門をくぐってゆるい傾斜の坂道を登り、再び唐門をくぐると御霊殿の前に出る。 「御霊殿」は、かつて頼宣が当寺を廟所と定めた時、「仏殿一宇を建立する」とある。これが現在の御霊殿で寛文2年(1662)9月に工を起こし、同7年11月に落成したものである。その後文政3年(1820)治宝公によって屋根替修理が行われ、昭和45年県文化財指定となり、昭和52年には雨漏りのため、一部屋根替修理を行い今日に至っている。(平成3年に全面改修された)
 現在、霊殿は、寄棟造、本瓦葺、玄関付(仏殿形式)である。
 平面は、北側に三間四方の御霊場に西側上段の間として、三間×2.5間の仏間が設けられ、厨子1基があって歴代藩主の位牌が祀られている。南側は2間×3間の御霊場に西側上段の間として、2間×2間の仏間があり、厨子2基を置き、向かって右は、各藩主の正室を、左は側室と子息の位牌を祀っている。南寄りの仏間背面には代参部屋をつけ、南、東、北には1間の畳敷廊下を設け、更に側廻りの外には濡縁が設けられている。
 客殿は、安永8年(1779)頃再建されたもので入母屋造本瓦葺で、数寄屋風の軽快な建物で、当初は、6間取りの平面形態に周囲を縁でめぐらし、南東は玄関のついた書院造りであったと考えられるが文政3年、治宝公の頃、大改修がなされたものと思われる。平面間取りは、南側に茶の間13畳、居間8畳、7畳の2室、北側に座敷8畳と10畳(床の間付)の2室よりなり、夫々雲欄間、吹寄せ欄間等が入れられている。

(5)母の菩提のために養殊寺建立
 頼宣は、父の為に東照宮を、母お万の方の供養のために和歌浦に養殊寺を建てた。

3.御逝去と遺品と御廟

(1)御逝去
 頼宣は、寛文10年11月病で床に伏せ、翌寛文11年正月10日和歌山城西別殿において享年70才をもって没した。治世、水戸受封より65年、諡号は、南竜院と申しあげる。廟所は、長保寺である。

(2)遺品
 今長保寺に遺品として蔵されているものは、下記のとおりである。
○冠 ○袍 ○袴 ○石帯 ○浅沓 ○数珠 ○笏 ○桧扇

(3)廟墓
 碑面には、全く刻字なし。
 法量 棹石、190センチメートル
    台石、6段180センチメートル
    献灯篭、高さ270センチメートル
    26基