1.藤原栄華最盛期に建てられた長保寺

 長保寺は、「長保寺縁起」によれば、平安時代、第66代一条天皇の勅願寺として長保2年(1000)現在地より僅かに西の地に天台宗寺院として約17年間を要して創建され、創建時の年号を賜って寺号としたと伝えられている。この時代は、天皇の外戚にあたる藤原道長を中心とする藤原北家の全盛期にあたり、天皇は自らも文芸を好み、その周辺には紫式部(源氏物語)、清少納言(枕草子)等平安朝文学を代表する文才の多数輩出した全盛期であった。
 寺の宗派は、もと天台宗、その後法相宗となり、久安4年(1148)再び天台宗に復し、その後真言宗を経て寛文5年にまたもや天台宗となっている。境内は、仁治3年(1242)に建立地域から現在地に移ったようである。時代は移って天正13年(1585)豊臣秀吉の天下統一による紀州征伐の兵火によって長保寺諸堂、宝庫は焼失したが往時は七堂伽藍と共に子院も12ヵ寺を擁したが現在は福蔵院の一寺を残すのみである。

(一)国宝 長保寺本堂                   昭28.3.31指定 本堂は鎌倉末期の延慶4年(1311)、現在地に移転の時に建てられ、寛文7年(1667)に修復されたものと考えられている。方五間、入母屋造り、一重本瓦葺のおだやかな建物で、柱頭の粽、組物の笹繰、拳鼻など禅宗風の手法を取り入れながら出入口の幣軸構、連子窓、組入格天井、吹寄の菱格子、扠首組の妻飾りなどは和様の手法に寄っており、唐様と和様の2つの様式を見事に融和させて鎌倉末期の日本建築の方向を示すものとして貴重なものといわれている。また、内陣の周囲は、厨子部を除き、すべて格子戸と菱欄間で結界されている。

(二)国宝 長保寺多宝塔                  昭28.3.31指定 この塔は、本堂に続いて建てられたものと思われる。三間多宝塔で本瓦葺、一重と二重の釣合いがよくとれ、その間にある丸い胴は、12本の柱によってつくられている。円胴の下部には、印度の土盛りの墓の名残である亀腹がおかれているが、この亀腹は非常に低くゆるやかな屋根の勾配とよく調和して安定感を与えている。また、細部においても力強い組物や美しい張りのある蟇股内部の折上小組格天井(天井の周囲が曲線の木で上げられている格子の天井)の雄健な手法など、外観内部共に純和様建築で、現存の多宝塔の中の傑作である。 
 内部の須弥壇は、建築の手法と違って禅宗様式をとり、腰の部分の唐草の彫刻は、すこぶる優美な作である。また、正面勾欄の細目に巴紋の入った透彫は他に例のない珍しいものである。

(三)国宝 長保寺大門(附扁額)              昭28.3.31指定 長保寺に残っている棟札の写しによれば、この大門は、本堂、塔に続いて室町時代の嘉慶2年(1388)に後小松天皇の勅宣によって寺僧実然によって建てられ、元和7年(1621)、天和3年(1683)に修理されている。
 三間一戸の楼門で、屋根は入母屋造、本瓦葺、中段に楼門特有の廻廊をつけ、高欄をめぐらしている。
 この門は、木鼻(木の端)など細部に禅宗様式をとり入れているが、三手先の組物や間斗束(組物の間に立つ束)など大体和様を基本にしている。
 高さと軒の釣合いや屋根の勾配も美しい。この門は、こうした形態のみごとに整った点において代表的な楼門の一つであり、室町時代に入って今迄のいろいろの様式が渾然と融和してゆく様子をよく表したものである。
 なお、大門に掲げられた縦1メートル、横0.7メートルの大門額(現在資料館蔵)は、後光厳天皇の王子で妙法院第14代門跡一品親王尭仁が応永24年(1417)6月1日に「慶徳山長保寺」と雄渾な筆致で書かれたもので大門に付随して国宝となっている。

(四)重要文化財 長保寺鎮守堂                大3.4.17指定 長保寺本堂に向かって右側の小路を登った所にきわめて小型のかわいらしい社がある。これが重要文化財に指定されている長保寺鎮守堂である。建てられたのは、本堂と同じ延慶の頃と考えられている。一間社流造、桧皮葺で間口1.34メートル、奥行2.4メートル、三方に反高欄のついた縁をつけ、斗 (組物)は、和様、側面の妻飾は、虹梁、大瓶束構え、正面には優れた蟇股を飾っている。その他、ごく細かい部分まできわめて丁寧に仕上げられ、小ぶりな姿ながら見事に整った出来ばえである。

(五)町指定 木造金剛力士像                 48.11.3指定 寄木造りで、もとは彩色像であったが、現在は、脱色しているものの大門を飾るにふさわしい巨像で作風は、慶派の系統によるもので、南北朝頃の造像と思われる。 
 寺伝によれば「弘安九年八月、湛慶作、大正三年修覆」となっているが寺伝を裏付ける資料はない。

2.紀州浅野家

(一)関ヶ原の戦功で、幸長入国
 初代藩主、浅野幸長は、長政の長男で、父長政は、秀吉によって近江・若狭の大名となり、また秀吉の全国統一に従軍すると共に太閤検地も行った。幸長は、父長政に従って小田原の陣にも加わり、また文禄の役と慶長の役では朝鮮にも出陣、加藤清正と共に各地に転戦した。その功により文禄2年には幸長に16万石、長政に5万5千石に分けて甲斐が与えられ、幸長は、大名となった。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦では家康方に味方し、三成方の大軍から本陣を守った軍功で甲斐22万5千石から11月紀州37万6千石の大名に栄進して入国した。この時若年僅か24才であった。 
 紀州に入国するや田辺に家臣の浅野左衛門佐、新宮に同じく浅野忠吉を置いて一帯を支配させた。翌年従四位紀伊守に任ぜられ、紀伊国全域にわたる検地を実施して農村支配を徹底した。
 この年、下津町浜中上村の5石を長保寺へ寄進する旨の文書を交付している。
 幸長はまた、フランシスコ会修道士に病気を治してもらったことからキリスト教を信じ、和歌山に教会病院を建設することを許可し、和歌山城下にも信者がふえたといわれている。また非常な学問好きで藤原惺窩等に経学を、砲術では稲富一夢等を招いて教をうけている。
 和歌山城の普請については、慶長6年に着工して11年には天守閣を完成している。
 しかし、紀州藩主になって13年目、慶長18年8月、38才で没した。法号は清光院春翁宗雲という。

(二)2代藩主長晟安芸の国広島へ転封
 浅野幸長に子息なく、幸長死亡のとき幸長の次弟で当時27才の長晃と25才の長重との間に相続を巡ってのお家騒動が起きたが長晃が母長生院に支持され、その遺領を継ぐことを駿府城で家康から命ぜられ慶長18年(1613)11月に2代藩主として紀州に入国した。
 紀州藩主になったばかりの長晃は19年11月に豊臣最後の決戦大阪冬の陣、翌年4月の夏の陣にも徳川方として従軍した。
 しかし、元和2年(1616)3月に、すでに正室があり、子息もあった長晃に無情な政略結婚として家康の三女振姫を正室に迎えることとなったが振姫は翌3年8月に死去した。
 安芸広島の藩主福島正則が幕府の許可なく広島城を修築したことで領地を没収されたため、紀州藩主浅野長晟は、元和5年7月安芸国広島へ、42万6500石と5万石の加増で転封を命ぜられ、家臣、御用商人、僧侶などを率いて8日広島へ着船した。よって紀州は、爾来御三家の紀州徳川家の所領となった。