(十四)十四代茂承(もちつぐ)公  内乱相つぐ紀州最後の藩主

1.生い立ち
 安政5年(1858)6月25日慶福が将軍家を継ぐこととなったため、西條藩9代藩主松平頼宣の7男頼久が年僅か15才で名を茂承と改め紀州藩14代藩主となり、伏見貞愛親王の御姫則子姫、貞淑夫人を正室に迎えた。西条藩から紀州藩へ移ったのは、6代宗直、9代治貞、14代茂承の3人である。

2.治績

(1)天誅組の乱
 2代続きの幼君のため、藩政は、前代に引続き水野土佐守、安藤飛禅守が主導した。倒幕運動が漸く盛になる中で紀州藩がやがてその渦中に巻きこまれたのは、文久3年(1863)8月天誅組追討軍の出陣であった。天誅組は、土佐鳥取、久留米、熊本などの脱藩浪士が結成した倒幕急進派グループだった。公卿中山忠光を盟主に大和で挙兵、この日大和五条の代官所を襲撃して代官鈴木源内を殺害した。そして桜井寺に「五条御政府」の本陣をおき「年貢半減」を掲げて兵を募った。彼等は、8月13日に孝明天皇が出した「大和に行幸し、攘夷のため軍略を練る」という詔勅を信じ軍を起こしたのであった。しかし詔勅は実行されず合流する筈だった攘夷派の長州藩兵や公卿等は8日、京都を追討されていた。天誅組は孤立無援で十津川の山中で苦戦を強いられた。8月28日紀州、彦根、津、郡山の各藩に追討の命令が下された。天誅組の兵は千人ばかり、これに対し、紀州始め諸藩の軍勢は計1万1千余名に上った。紀州勢は、高野山、津勢は五条、彦根勢は桧垣などに布陣して天誅組を包囲した。しかし実戦経験のない藩兵はおびえて動かず、家老水野多門は和歌山城へ引きあげた。紀州勢は一時混乱したが9月末日首謀者を討ち10月10日漸く乱は収束した。この乱で、紀州勢で活躍したのは正規兵でなく御小姓兼奥祐筆頭、津田出、和歌浦法福持の住職北畠道庵に率いられた農民兵達だけであったという。

(2)長州出兵
 元治元年(1864)8月6日長州征討のため総督を命ぜられたものの、8日には尾張藩主に変更され、茂承は旗本後備えを仰せつかった。この時、軍備を強化するため隠居を命じられていた安藤直裕が幕府から免じられ家老職再勤を申し渡された。12月には長州藩主が謝罪したため2年正月進発中止が伝えられた。5月12日長州再征の先鋒総督を命じられた。翌慶応2年6月本陣広島城に入り、石州口へ前軍総督水野忠幹を進軍させた。こうした戦費を賄うために津田出に「御改政御趣法概略表」を提出させ、家中半知等を実施、藩政の改革を目指すが津田は失脚した。

(3)大政奉還
 慶応2年(1866)第2回長州征伐の出発の際に家茂が急死しまた同年倒幕派をおさえていた孝明天皇も急死した。1867年、慶喜が大政奉還を朝廷に申し出て朝廷もこれをうけ入れ王政復古の大号令を出し、幕府は滅んだ。
 明治2年(1869)6月和歌山藩知事となり、同4年7月藩知事を免ぜられて東京へ移った。10年墓参に帰った折「旧和歌山藩士に告ぐ」を発表、士族は他の資本に頼らず自立すべきだとして10万円を供し、徳義社を設立した。

3.御逝去と遺品と御廟

(1)御逝去
 明治39年8月20日江戸で逝去され、享年63才、諡して慈承院と言う。東京本門寺へ埋葬されていたが昭和33年9月29日、東京で火葬に付し、墓石と共に長保寺へ運び埋骨された。

(2)遺品
・茂承公肖像画
・貞淑夫人様御留袖の端切

(3)御廟
藩主御廟
 碑文 従一位勲三等侯爵徳川茂承之墓
 法量 棹石 175センチメートル
    台石 二段 120センチメートル
 献灯篭 6基

夫人御廟
 藩主御廟の同敷地に2基の供養塔がある。
 ・貞淑夫人供養塔 明治7.11.14
 ・温譲院殿供養塔 明治19.6.28

(十五)十五代頼倫(よりみち)公  南葵育英会を創設

1.生い立ち
 頼倫は、徳川家三卿の一である田安家徳川慶頼の第5子で、母は沢井氏、明治5年6月3日生る。明治42年(1879)旧和歌山藩主徳川茂承の養子となり、茂承の長女久子を妻として39年9月紀州家を嗣いで貴族院侯爵議員となった。

2.治績

(1)南葵育英会の設立
 明治44年自ら数十万円を拠出して南葵育英会を設立し、経済的な理由で就学困難な本県出身の子弟に対して奨学金の貸与、学生寮の提供などを行った。

(2)南葵文庫を創設
 文化事業に多大の犠牲を払われ、自家生活費の幾倍を投ずることも惜しまず南葵文庫を設立し、数万冊の蔵書を一般に公開し、日本図書館協会総裁、史跡名勝天然記念保存協会を起す等我国の学術、芸術上への貢献は誠に大なるものがあった。

3.御逝去と遺品と御廟

(1)御逝去
 大正14年5月10日、東京代々木の本邸で甍じた。享年53才。御遺体はそのまゝ特別列車で長保寺へ移し、6月3日荘厳な埋棺式を行った。樹徳公と諡す。

(2)遺品 自筆の軸がある。

(3)御廟
 碑文 樹徳院
 棹石 200センチメートル
 台石 二段 46センチメートル
 献灯篭 21基

(十六)十六代頼貞(よりさだ)公  音楽界で国際的貢献

 14代茂承の孫、イギリスに留学してケンブリッチ大学に学んだ大正7年(1918)南葵学堂を建設、欧米巡遊中に収集した音楽関係の資料を公開した。この音楽堂は日本最初のパイプオルガンで知られる。14年に家督を相続し、昭和20年(1945)の終戦まで貴族院議員として国政に参画した。22年4月第1回参議院議員選挙に和歌山地方区から当選し、28年再選、外務委員長をつとめた。また、全日本音楽協会会長、ユネスコ国会議員連盟会長、日タイ協会々長、ベルギー協会々長、南葵育英会総裁などを歴任した。昭和29年4月27日没、東京でキリスト葬により火葬、遺骨で長保寺へ埋骨式を行った。諡して優公院、「徳川氏の墓」へ葬られた。

(十七)十七代頼韶(よりあき)公 惜しくも42才で逝去

 頼韶は、16代頼貞の長子、身体稍弱く、昭和33年12月6日、東京で逝去、一度妻帯したが間もなく死亡され離婚した。昭和33年12月6日東京で逝去、キリスト教式による密葬、寛永寺山内寺院真如院へ納骨されたが現在地長保寺「徳川氏の墓」へ埋葬された。

(十八)側室の御墓  紀州藩を支えた側室

 紀州藩の藩主をとりまく側室は約50人を数えられる。ところが側室の御墓として現在はっきりしているのは長保寺の6基である。
 御霊殿の厨子におさめられている側室の厨子は、藩主、夫人のそれとは別のものであることは前に記した。そして側室のお墓の建てられているところも長保寺御廟の御廟門の中は藩主、夫人の御廟であって、お成り道から御廟門に至る道を右にそれた山すそに6基が並んでたてられているのみである。お墓を建てゝもらえない程身分の軽いあつかいを受けたのであろうか、そしてこの6基の中に8代重倫、10代治宝公の御生母となった側室も側室としてのあつかいに終っていること。たとへ夫人となっても藩主の御廟の側には建てられなかったこと我々庶民には、今の世では理解しがたいことの多いことである。

あとがき

 長保寺が建立された時代から書きはじめ、現在残っている各建造物を紹介し、つづいて紀州の統治が浅野家から徳川家へと移った事情、そして今、長保寺の各御廟をよりどころとして関係資料を収集し、初代から現在までの各藩主等について、その生い立ち、治績、御逝去と遺品と御廟の現況について書き終えました。
 この間にあって左記の貴重な資料を参考にさしていただくと共に関係機関、有識者の方々から御協力とご指導を得たことを深く感謝すると共に主な参考文献と関係機関名を掲げて厚く御礼申しあげます。

(参考文献)
 南紀徳川氏
 和歌山史要
 下津町長保寺
 海南市永正寺
 和歌山県史
 和歌山県立図書館
 和歌山市海善寺
 和歌山県政史
 和歌山市立図書館
 報恩寺
 紀州郷土芸術小伝
 養殊寺