吉宗寄進の香呂

 


水晶子犬
13代藩主徳川慶福(よしとみ)、のちの1 4代将軍家茂(いえもち)幼少のおりの玩具

 

 紀州徳川家御廟所は、和歌山県有田市の北、海草郡下津町の長保寺にある。
 元和5年(1619)に徳川家康の第10子徳川頼宣が御三家の一人として55万5千石を領して紀州に入国し、幕藩体制の要のひとつとなった。寛文6年(1666)に頼宣は熊野巡見の帰途、古刹の長保寺の立ち寄り、この地が三方を山に囲まれ、下津湾を見渡せる景勝地であり、また、要害の地であることに着目して菩提所と定め、翌7年に仏殿を建立し、伽藍の整備を行った。頼宣は寛文11年に死去したが、遺命によりこの地に葬られ、以後、徳川宗家を継いだ5代藩主吉宗(8代将軍)と13代藩主慶福(14代将軍家茂)を除いた和歌山藩歴代藩主と、その夫人や子息の墓所とされた。
 各墓域は急峻な山腹を削り、城郭の石垣と見まがうばかりの砂岩の石垣により、上下壇を作り出している。上壇の中央には花崗岩の広い基壇を築き、四周に瑞垣をめぐらし、正面中央に廟門を構え、基壇中央に墓碑を建て、その背面には5本の木製卒塔婆を挿入できる穴をうがち、上壇の正面にも瑞垣を建て、下壇と区画している。下壇は参道より高い石垣で区画され、正面中央に石階段を設け、一間の門を構え、さらに上壇まで砂岩製石畳の参道がつづき、上下壇の正側面には多数の大きな灯篭を置き、この形式を基本形としている。
 墓域の設定・配置については、全体として規則性はみられない。しかし、2代と8代、3代と9代、11代と12代の墓所は、同一の上壇に、それぞれの基壇を並立して建て、下壇を共用し、石畳参道は中央に位置しており、後世に改修された可能性が考えられる。
 墓碑を形式によって分類すると、無縫塔は1、6、7代、角柱(棟型角柱を含む)は2、3、4、9、14、15代、八角宝塔は8、10、11、12代になる。墓碑銘については6代まではすべてを無銘で、7代からは正面に院号と両側面に没年時を刻んでいる。


花の寺
紀州徳川廟・国宝
長保寺


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