姿勢
仏教では一般的には座って瞑想することになっていますが、これは釈尊が悟りを開いた姿が源泉になっています。しかしながら、仏教の長い歴史をひもとくと、行住座臥いろいろな姿で過去の高僧方は悟りを開いています。阿難尊者は仏滅後の第一結集の時にまだ悟りが開けず、仲間に入れてもらえそうになっかたので、もうだめだとガックリとうなだれたところで忽然と悟りを開いたといいます。弘法大師は求聞持法を修行したとき明星が口に入ったといいますから、おそらく首を明星を見る角度まで上げています。白隠禅師は托鉢をして門前に立っていた時、無信心な婆さんに水をぶっ掛けられて、悟りを開きました。この白隠禅師の軟蘇の法は寝てします。キリストは荒野をさ迷い歩いて、これは座ったというのはないらしい。悟りがひらける瞬間は、あんまり姿勢とは関係ないと思いますが、長いこと瞑想しつづけるには、やはり負担の少ない方法ということで有史以前から座って瞑想という姿に自然となったのでしょう。これが、だから、背筋を伸ばした優雅な姿勢であることが望ましいですが、姿勢が悟らせてくれるのではありません。
座る場合、右が上か左が上かで諸説あります。どうもインドの仏像、ビルマ、タイなども右が上のようです。左が上は中国に来てからかもしれません。宗派の伝統に従えばいいとしておきます。ただこの瞑想は座るのなら加持を得るため密教式に右を上にしてください。
印
法界定印。一般的な仏教の形ということです。密教の場合は印と真言と観念の三つが必要になりますが、難しいので、シンプルにしました。シンプルにしても難しいことは難しいのです。慣れれば印はいらなくなります。布団の中などで寝てするのなら印はいりません。手のひらを上に向け、光を受け取ることをイメージします。寝入りばな、覚醒時などに練習すると深い瞑想に入れるようになります。法界定印を積極的に否定する人は、魔が近づくのでこの瞑想はやめてください。
補足 氏神様かその土地の神様を信仰してください。それと有縁の霊を十分供養してください。お金をかけることとは関係ありません。心が通じることが大事です。たとえば、近くの神社にお参りして、お墓参りをちゃんとするということです。ここらあたりが、かなり奥深い問題になりますが、独り善がりで瞑想に打ち込んでも、瞑想が深まれば深まるほど、大きな問題になってきます。
呼吸
これも諸説あります。一般的に言って、普段は呼吸を無意識にしています。意識的にすることに切り替えることも出来ます。つまり、意識と無意識の両方にまたがっています。で、呼吸に集中すると無意識の領域に近づけるという理屈。難しく考えず、慣れるにしたがって深くゆっくりした呼吸になります。
呼吸に意識をするのは、精神集中と言っても捉えどころがなく、すぐに雑念が起こるからです。無意識に心が向くもっとも身近な方法です。
息を吐くときは、自分の中にある、恐れ・満たされぬ思い・悲しみ、などが体から抜け出て法界の大慈悲にゆだねられることをイメージします。
補足 瞑想が深まれば、呼吸は意識されなくなります。
目をつぶる
半眼といってかすかに目を開けるという説もあります。目をつぶると自動的に寝てしまうように人体ができているのではないかというのが根拠。ただ、光をイメージするのには目をつぶらないとうまく出来ません。
仏像とか仏画、はては荘厳な伽藍などは、イメージの強化のためにあると言ってもいいのです。これはこれで大変に意義深いものですが、つまりはこれらは物質であって、この物質を維持管理するためにいらぬ苦しみが生じてくることになるのです。目を閉じて瞑想することに習熟すれば、いらぬ心配はしなくてよくなります。
補足 私の寺は、本堂・塔・門と国宝で境内15000坪は国史跡です。目をつぶるのは、思いつきや洒落で言っているのではありません。
かすかに微笑む とても大事です
インドに残されている仏像はどれもかすかに微笑んでいます。仏頂面という言葉がありますが、口をへの字に曲げてしかめ面をするのは瞑想の時の面構えではありません。奈良の大仏さんの顔は、威厳のあるちょっと怖い顔ですが、あれは国家の威信を示すためあんな顔をつくったのだと思います。皆さんは安らかな微笑みを浮かべて瞑想してください。
宝号
円頓章や本覚讃、総礼伽陀もいいが長いので。宝号は魔事をさけるため唱えてください。三帰・三境もいい。門徒であるなら念仏もいい。大師宝号や真言とか陀羅尼もいい。五体投地もいい。と、だんだん長くなってしまうので簡単なものを探してください。無宗派でいいという指導があるが笑ってしまう。瞑想は実際そんなに甘くありません。健康法とは違います。厳粛なものです。
補足 自分勝手に作ったものはだめです。少なくとも500年、出来れば1000年以上の伝統のある宝号か経典の一節を唱えてください。神僧や祖霊が聞いてわかる必要があります。自分の命に、宇宙のもの、大自然にあるもの、といろいろ理屈をつけても、お父さんお母さんがいなければ生まれてはこれません。いずれかの宗教の伝統の流れに入らなければなりません。たとえ批判されるような歴史があったとしても、伝統ある宗教には本質がちゃんと備わっているのです。その本質と付き合えばいいのです。