仏涅槃図

重要文化財 一幅
絹本著色 鎌倉後期(十四世紀)
縦225.8 横159.8 
涅槃図は、釈迦の入滅を描いたもので、古くは仏の一生を説く仏伝の中の一場面として、彫刻や絵画などで表現されたが、釈迦の誕生を祝う仏生会(ぶっしょうえ)(花祭り)と対応して、毎年二月十五日の釈迦の入滅の日に執り行われる涅槃会に際し、その本尊として懸垂されるようになった。 
本涅槃図は、縦長の画面中央に、右手枕に横臥する皆金色(かいこんじき)の釈迦を描き、葉を白変させた沙羅双樹(さらそうじゅ)の木陰に、悲嘆にくれる仏弟子・天部・諸菩薩・俗人・動物等を配し、右上方には天上界から悲報を聞いて急ぎ下ってきた摩耶夫人の姿がある。こうした涅槃図の形式は、大筋において、鎌倉時代に流布した中国・宋の影響をうけた涅槃図に共通している。 
なお、長保寺の古文書「釈迦堂寶物并寄進帳」によると、この涅槃図は真如親王(生没年不詳。9世紀の人)自作と伝えられ。和歌浦東照宮の別当寺院雲蓋院四代住職憲海が入手し、五代住職宗海(元禄14年まで在職)が修復を加え長保寺に奇付したとのことである。和歌山県下には、高野山金剛峯寺の国宝‐応徳涅槃図と、浄教寺の重文涅槃図があるが、この涅槃図は、それらに続く鎌倉後期の代表的作例として極めて貴重である。



和歌山県立博物館「長保寺の仏画と経典」より

絹本著色仏涅槃図  一幅

   国指定 明治43年8月29日
 縦233p×横158.3p
 鎌倉時代
 長保寺は長保2年(1000)一条天皇の勅願による創建といわれ、江戸時代には紀州徳川家歴代の菩提寺として栄えた由緒ある名刹である。
 本品は絹本著色・掛軸装の涅槃図で、一般には毎年2月15日に催される涅槃会の本尊として祀られるものである。釈迦が沙羅双樹の下で横臥し、まさに永遠の涅槃に入らんとしている。四周には諸菩薩・仏弟子・会衆をはじめ動物たちまでが集まり驚きと悲しみにうちひしがれている。天空のトウリ天からは二人の侍女を伴い、阿那津に先導された仏母摩耶夫人が急をきいて袂でこみあげる涙をおさえながら飛来している。仏涅槃図はかかる数ある仏伝のうち最も劇的な釈迦入滅の場面を描いたものである。
 県下には本品を含めて3点の著名な涅槃図があり、ひとつは高野山金剛峰寺蔵の応徳3年(1086)の墨書銘を持つ我国最古の作品で平安時代涅槃図のプロトタイプともいうべきものである。他のひとつは吉備町浄教寺蔵になるもので、鎌倉時代の作例ながら、形式的には平安時代の古式を踏襲しており、天蓋を描くなど他に例をみない作例である。本品は前二者に比し明らかに鎌倉時代涅槃図の新形式により描かれている。釈迦は画面全体に対して小さめに描かれ、横臥の形式も両手を体側につけて背筋を伸ばした姿から、右手を手枕にして膝をまげてくつろいだ姿となっている。釈迦の寝ている宝台も足元の側面をみせていたのが本品では視点が頭部の方に変わっている。参集した会衆や動物の数は目にみえて増加し、驚愕の表現も顕著となっていることなどがあげられよう。作風的にも釈迦のぬんめりとした面相や、湧き立つ霊雲の描法に宋風の影響が認められ、制作は鎌倉時代になるものである。特に本品の特色としては飛来する摩耶夫人が早来迎のように急旋回して降りており、背景の尼連禅河は湧きたつ多くの霊雲によりほとんどみえない。錫杖はむかって左から二番目の沙羅樹にかかるが、鉢を入れた包みは宝台の上に置かれている。
 京都禅林寺蔵の涅槃図(重文・鎌倉時代)は本品と細部にわたり形式を同じくしており、両者にはなんらかの有機的つながりがあったものと考えられる。



清文堂「和歌山県の文化財 第2巻」より