V:傳全5 B:覺深撰 P:付064 傳教大師傳卷上。 夫釋尊の慧日既に雙林に隱ましまして。慈氏の覺月いまだ龍華を照したま はす。其間命世の師出て佛化を流通し。分身の聖ありて衆生を利益したまふ。 是則三世の慧利疆なきがゆへなり。爰に比叡山延暦寺の開山傳教大師は。諱 を最澄と申奉る。御父はもろこし後漢の孝獻皇帝の御苗裔登萬貴王と申奉 る。其御子にてそましましける。後漢の末。中華みたれしかは。我國の皇化仁政 なる事を慕ひたまいて。遙に本朝にわたりたまひしかは。帝その皇孫なる事 を賞したまひて。江州滋賀の郡を食邑となし。三津氏をまいらせたまひて。三 津の百枝とそ申ける。内外の學に富。諸子百家の書に通し。ことにふかく佛法 に歸依して。常に讀經念誦し。後には住宅を寺となして住たまふ。東坂本の紅 染寺これなり。此ところ春の花。秋のもみち。さなからくれゐいの色ふかくそ めなして。軒端をめくり侍れは。かくは名付たまふなるべし(紅染寺の舊跡今來迎寺の西方にあり)。 しかるに一子なき事をかなしみたまひて。日枝山の東の麓に神祠あり(八王子の 社の奧神宮寺是なり)。夫婦共に彼のやしろに詣て。精祈したまうに。第四日に滿るあかつき。 P:付065 あやしき夢の告ありて。夫人胎内おもき事をおほへたまへは。我願既に滿足 しぬとて下向したまふ。それより月日かさなりて。人王四十八代稱徳天皇の 御宇神護慶雲元年丁未八月十八日に。江州滋賀郡三津の浦にて誕生ましま す(誕生の地は後に寺を建すなはち今の東坂本の生源寺是なり)。降誕の時種種の奇瑞あり。まつ天より花ふりて しはしか程色鮮なり。或は人家の園に散布て。蓮の池のことくなれは。其所を 蓮華園と名付く。今に山門の東坂本にそ侍る。又御手に白銀の藥師如來の小 像を持て誕生まします。此の尊像は宿生の本尊とて慈覺大師より承雲阿闍梨 へ傳たまひてのち。代代梶井門跡の重寶となり侍る。扨又誕生の後七日を經 て。御母公の懷の内よりみつからおとり出たまひて東にむかひ七足歩み。合 掌して捨於清淨土。愍衆故生此。能於此惡世。廣説無上道といふ。法華經の文を 誦したまへは。父母をはしめ。見る人あやしみて。これより權化の再來とそ申 しける。誕生の折ふし。隣家よりよろこひあつまりて種種の饗をもふく。長大 たまひて後。人に對して其時の饗應のしなしなを語たまふに。聊も違事なし。 扨四五歳になりたまへは。自然に學のみちを心さし。七歳にては。學問の才智 同列にすくれ。剩深佛道を慕たまふ。しかのみならす。陰陽醫方工巧等のわさ P:付066 まても通達したまへり。光仁天皇の御宇寶龜九年戊午。御年十二歳にして國 師大安寺の行表和尚に隨て出家し。唯識論等をまなひ。かたはらに廣經論を あきらめたまへり。天應元年辛酉。御年十五歳の時。勅して國分寺に住持せし めたまふ。其後父母語て宣く。我むかし一子なき事をうれひて。日枝の山の麓 神詞にて懺悔の法を修し賢子を得む事を神明に祈しかば。第四日の曉ふし きの好夢を感して汝を産り。しかるに。懺悔の法。一七日を期せしに。其日數い またはたしとけす。願は汝彼所に詣て懺悔を修し。我宿願を滿よと。最澄すな はち承諾ましまして。彼神詞のほとりにて。一心精進に懺悔したまへば。靈應 ひひきの應するがことくにて。忽に香爐の中にて佛舍利一粒を感得したま ふ。又暫ありて。灰の中にて金の香合を得たまふ。大きさ菊の花のごとし。則彼舍 利を入れたまへば。宛も舊器のごとし。隨喜頂戴して倍信敬の誠を盡したま ふ。其後彼所に寺院を建て神宮院と名付たまふ。かたはらに飛瀧あり神藏か 瀧と號す。其外靈跡ありといへ共事しければこれをもらしつ。人王五十代桓 武天皇の御宇延暦三年甲子正月二十日最澄御年十八歳にして進而具足戒を 受たまふ。其時いまだ圓頓菩薩戒なきゆへに。二百五十戒をそうけたまひけ P:付067 る。同四年乙丑秋七月。御年十九歳にして衆生濟度の御心さしふかく。世間の 無常を觀し。閑靜の地を求て修行せはやとおほしめし。日枝の山に攀登り。山 中を歴覽したまふに。法性の峰たかくそびへて。眞如の谷深とほれり。いと殊 勝におほしめし。雲を踏風を帶て萬丈のさかしき嶺にのほり。雨を凌霧にむ せひて千仭のけはしき谿にくたり。一一めくりて見たまへは。忽五百の羅漢 精進修行の所に到りたまへり。其すかた。或は誦經念誦し。或は印契をむすひ。 或は禪坐す。最澄たうとくおほしめし。立よりて問たまはく。此山に何の徳あ りて聖者爰に住するやと。羅漢こたへて曰。靈山の報土は劫火にも壞せす。常 寂の嚴土。無明豈けかさんや。本願によりて爰に住す。心澄寂靜にして慈氏の 出世を期すと。最澄きこしめし深信敬したまふ(大師學生式の中にも此語をうつし載せたまふ)。又それよ りひとつの峰にのほりたまへは。威儀肅肅たる天童に逢ひたまへり。則其名 を尋たまへは。童子答てのたまはく。天地經緯の靈童。衆生本命の同生神なり とてうせたまふ。大師いとありかたく思召。後に其所に社をたてて彼神を勸 請したまふ。定心院の山王これなり。かくふしきなる事のみ見たまへは。彌此 山を靈地なりとおほしめし。松の木陰に苔を拂ひ岩に添て柴の庵を引むす P:付068 ひ。峰のあらしはけしき夜は忍辱の衣をかさねてこれを防。朝の烟かすかな る日は禪悦の食を甘ひてこれをしのき。又坐禪の床を立ては法華金光明般 若等の諸大乘經を讀誦し。花を手折水をむすひて三寶諸天を供養し。一心精 神に修行したまふ。かくて起信論疏。華嚴五經章等の書を披覽ましますに。何 れも皆天台智者大師の教をもつて指南とせり。これによりて。天台の經釋あ らん事を思ひたまひて。南都の方にこれを求たまふ。天台の玄義文句止觀 並に四教義維摩經の疏あり。是はいにしへ鑒眞和尚のもろこしより將來し たまふ所也。最澄これをよろこひたまひて。則うつし得て寢食をわすれ歴覽 したまふに。宿因の催す所。釋尊の本懷天台の内觀。渙然として氷のことく解 しかは。これより天台一家の宗を建立して日本一州を圓機純熟せしめ。朝野 遠近に此法をひろめて。あまねく衆生を濟度せんとそおほしめしさためた まいける。かくて日夜昏曉に修行の功をはけみたまふ所に。ある時菴室の北 の峰にあたりて晝は紫雲たなひき。夜は白きひかりたちのほれり。最澄あや しみ行てこれを見たまふに。古木の倒伏たるあり。天龍八部圍繞してこれを 守渡す(今東塔北谷八部尾此所也。天龍八部守護の所なれは八部の尾とは名付け侍る)。扨は雲おほひ光たちぬるも此木ある P:付069 ゆへなりとしりたまひぬ。かたはらに仙人數十人並居たり。最澄これはいか なる木そと問たまへは。仙人云。これはむかし天竺の持明仙人赤栴檀のひこ はえを持きたりて★の木の朽たる跡に植置けり。其長五丈はかり立のひた るを。一とせ大風吹倒して今千歳におよへり。聖人はやく此木をとりて佛像 を造立し衆生を利益したまへ。凡此地は五百の賢聖栖心修行の靈窟なり。幸 に今聖人に値り。我此山を聖人に付屬すと云をはりて見へす。大師歡喜踊躍 ましまして。やかて彼靈木をとりて三體の佛像をおなしかたちに彫刻した まひて扨十指合爪して一心に歸命し。南無淨瑠璃淨土十二最上願教主藥師 瑠璃光佛。像法轉時利益有情と唱へて恭敬禮拜したまへは。彫刻の一尊點頭 したまふを藥師如來とあかめ。釋迦の讚をとなへて拜したまへは。又一尊低 頭したまふ。これを釋迦如來と定め。彌陀の讚を誦して禮したまへは點頭し たまふを阿彌陀佛とあかめて。此三尊を山門三塔の本尊と定めたまふ(三尊の印 相ふかき習あり紙上にあらはしかたし)。其後延暦七年。戊辰の年日比精進苦行の靈地をかさねて七 重結界し。佛堂を建立せんため。地を引ならしたまふに。牡蠣のからかきりも なく出けれは。最澄大師あやしみたまふ。折しも老翁一人きたれり。其相はな P:付070 はた威靈にして鬚髮しろし。大師立よりて問たまはく。此高峰にかくのこと くかきのからあるへきやうなし。翁そのゆへをしりたまはすやと。翁こたへ たまはく。むかし迦葉佛の末に此所洋洋たる大海なりしに龍神出て築しか はかくのことく太山となれり。これによりてかくかきのからはあるなるべ し。としひさしけれは分明にもおほえ侍らすと。大師彌ふしきに思召。おこと は誰そと問たまへは。翁の云。われは此湖水の邊に住者なり。世の人は白鬚と こそ呼侍れとて見へす。大師。扨は明神も此堂の建立を喜ひて現形したまふ にやとて彌創業をはけみたまふ。扨三の堂を建立し。中央には藥師如來を安 置し。北の堂には毘沙門天王を安置し。南堂には一切經並天台大師の尊像を 安置したまふ。藥師堂は三の堂の中央なれはとて中堂と號す(又此藥師如來靈木の本木にて作 たまふゆへに。其本尊を居奉る堂なれは根本中堂とは申なり。根本の名に付てふかき子細はあれと先此義一説なり。余は祕事なれはもらし侍る)。其後元慶六年に 智證大師修復したまふ時。三の堂を合て一堂にこめたまふ。今の根本中堂の 圖形これなり。扨最澄大師根本中堂建立まします時御歌に。阿耨多羅三藐三 菩提の佛達我立杣に宜加あらせたまへ。と詠したまふ。此歌新古今集に入侍 る。其堂造畢の後一乘止觀院と名付。一山の寺號を比江山寺と號したまふ。か P:付071 くて藥師如來の尊像を安置し奉りて末代不滅の常燈明を大師御手つから かかけたまふ。其時の御歌にあきらけく後の佛の御代までも光傳へよ法の 燈。と詠したまふ。其御歌も新後撰集になん入侍。最澄大師常には中堂院と 申坊に住たまふ。其院の前。紅葉のこきうすきさなから錦をさらし侍るころ。 等持定裏青苔地。圓覺觀前紅葉林。といふ詩をなん賦したまふ。ある時又法華 經二十八品の歌の中に方便品法師品分別功徳品の意を(續古今集第八)。三つの川ひとつの海 となる時は舍利弗のみそ先渡りぬる。この法を唯一言もとく人はよもの佛 の使ならすや。我命なかしと聞てよろこへる人はさなから佛とそなる。かく 風雅のみちをも折にふれておのつからもて遊ひたまへり。或時中堂に詣て 修法念誦をはりて歸りたまふに。滿土混淪の辻にて異相の人に逢たまへり。 其形たけひきく。色くろくて。くろき帽子を着し。左の手に鎰を持右の手のこ ふしをにきり。えみをふくみて立たり。大師あやしみて。誰と問たまへは。普利 衆生。皆令離苦。得安穩樂。世間之樂。及涅槃樂と唱へて見へす。大師扨は大黒天 にてましましけり。此天は世間の福祿をあたゆるのみならす。涅槃の深き樂 をもあたへたまふ事難有利益なりとて。則手つから大黒天の像を彫刻して P:付072 安置したまふ。政所の大黒これなり。これより日本國中に大黒天を信仰する 事は流布し侍る。扨西塔横川は最澄大師の御生存の内建立の御いとまなき ゆへ。まつ本堂の地を卜定したまひて。西塔には相輪★一基を造立したまひ。 最澄大師みつから銘を記して彫付させたもふ。其後天長年中に御弟子圓澄 和尚。法華堂を建立し。寛平五年に常行堂を造立し。承和元年甲寅に釋迦堂を 創建し。最澄大師造立の釋迦如來を安置したまふ。横川にも最澄大師まつ塔 を建て手つから記したまはく。於横川蘇陀峰建法性萬善三摩耶形道場(云云)。其 後。嘉祥元年に慈覺大師。横川の中堂を建立したまふ(横川の建立委旨慈覺大師の傳にあり。故にこれを略し侍 る)。延暦十二年癸酉正月に長岡の京より今の京に遷都あるへしとて。大納言 藤原小黒丸。左大辨紀古佐美。沙門賢憬(荒田氏尾州人受唯識於興福寺宣教)を遣て。山背國葛野郡 字太村の地をみせしめたまふに。此所左青龍とて東に流水あり。右白虎とて。 西に曠野あり。前朱雀とて南に澤畔あり。後玄武とて北に高山あり。尤四神相 應の地也。況復。山川うるはしく四方出入の道便なり。百王不易の都なるへし と奏せられけれは。桓武天皇叡感ありて。則都を今の京にうつさる。同十三年 甲戌十月二十一日に今の京の内裏成就して遷幸の儀を刷たまふ。其時先最 P:付073 澄大師に勅命ありて帝都を安鎭結界したまふ。都は九條をひらく。胎藏界八葉 中臺の儀にかたとる。我山には九院の佛閣を建。金剛界九會の義に比す。故に 五大院先徳四明安全義曰。城三反地鎭而構九重皇居。山七重結界而闢九院佛 閣。佛法之根本。鎭護國家之祕術也。平安城者。本有四徳之城。比叡山者。修徳四徳 之山也。修性一如。事理不二。暫不可相離。若一闕則二共不可安穩(云云)。これすなは ち桓武天皇は靈山の聽衆。傳教大師は一會の同聞にてましませは。むかしの 芳契くちせすして共に扶桑の利益をなしたまふ。されは四明安全義に。聖皇 擇斯地。高祖卜我山。世智與道眼。互通精神。天象與地儀。共得函蓋。故佛法護王法。 王法崇佛法。永建皇帝本命之道場。偏嚴國家鎭護之精誠と判したまへり。かか る由緒のましますゆへ。帝の御歸依淺からす。されは。去る九月三日。根本中堂 供養の儀を修せらる。そのゆへは最澄大師奏聞したまふは。當人屋艮。有滿尺 石。禍必起從是。當王城艮。有一聳嶺。禍可起從彼。供養伽藍。宜弘佛法。塞魑魅通入 之路(云云)。依之。七僧供養の大法會を修せられ。天皇行幸ましまして御聽聞あり。 (此事國史には見へさるか座主記叡岳要記にはまさしく行幸のよししるし侍る)上卿は正二位大納言藤原朝臣小野磨。奉行 は從二位左大辨紀朝臣佐教也。伶人六十六人をして舞樂を奏せしむ。導師は P:付073 興福寺の善珠大法師(後僧正任)。呪願は加實律師(藥師寺僧後任大僧都)。引頭は大別當義眞和尚 (山門右方)玄賓大法師(興福寺左方)。堂達は元興寺の勤操大法師。興福寺修圓大法師。唄師 は東大寺明壹(法相宗)。法隆寺の忠惠(法相)。散華は元興寺護命(法相宗後任僧正)。大安寺散般。 讚頭は大安寺聞寂(法相宗)。山門の延秀。梵音は元興寺の賢玉(法相宗)。山門の眞忠。錫 杖は山門の藥隆並道紹也。奉行僧二人。賜赤袈裟着之。威儀師圓也(年五十五歳)。從儀 師賢算(六十八歳)にてそ有ける。法會の巍巍堂堂たる事申もさらなし。しかしより 此かた。鎭護國家の道場として天下泰平の護持をなす事。ひとへに我山の規 摸也。されは桓武天皇は鎭護國家の道場は獨山門にありと勅したまふとか や。延暦十四年乙亥二月勅命をくたしたまひて。比江山寺をあらためて延暦 寺と號して寺額をたまふ。凡年號を寺號に用る事。私さまになすわさにあら す。勅命による事なり。ことに四ケの大寺の中にて。當山は叡信淺からさるゆ へ。かく紀元を寺號にたまふ事。豈我宗の門★にあらすや。同十六年丁丑。三十 一歳にして内供奉に補し。江州の正税をたまふ。これより彌玉體の御加持を 修したまふ。護持僧と申これなり。此時より門弟も數まさりたまひて山中も にきはひけり。しかるに山上に一切經を安置せはやと思召。七大寺(東大寺。興福寺。 P:付075 元興寺。西大寺。大安寺。法隆寺。藥師寺)の諸大徳にすすめて。書寫せしめたまふいつれも功 徳にいさむ。心さしありて。海藏不日に出來せしかは。根本中堂に萬僧會を設 てこれを安置し供養したまふ。同十七年戊寅冬十一月に天台大師報恩謝徳 のために法華十講の法會を修せらる。則七大寺の碩徳十人を請して。講匠と なす。其後此法會相續してたえす。今山門の大會に霜月會といふこれ也。同二十 年辛巳十一月中旬に。亦七大寺の名徳を屈請して根本中堂におゐて。法華仁 王金光明の三部の經典を講讚したまふ。同二十一年壬午正月十五日。國子祭酒 和氣弘世最澄大師を請し。高尾山寺にて天台の法門を講せしめ。又十餘輩の 名徳を延てはしめて法華會をおこなひたまふ。桓武天皇此事を叡感ましま して。治部太輔和氣朝臣入鹿を勅使として詔に曰。昔者給弧長者。降能仁於祇 陀之苑。常啼菩薩。聞般若於尋香之城。是以。和信土延二六之龍象。設一會之法筵。 所以。慧日増光。禪派澄流。一乘之玄猷。始開區域。三諦之微旨。聿被人天。像李傳燈。 斯創軌躅。隨喜法筵。稱歎功徳とそ勅したまひける。しかれは宣旨のことく。法 華一乘の法門。止觀三諦の奧義。日本一州にひろまり。緇素貴賤を利する事。誠 に最澄大師の功勳明明赫赫たるもの也。同年九月十二日に入唐求法あるへ P:付076 きよし。詔を降さる。其勅曰。最澄闍梨。久居東山。既探法華奧旨。早踰西海。宣傳天 台教文。唯其往還。不得過期とそ仰出されける。これすなわち其才器を愛護ま しますかゆへに久敷異國に逗留したまふ事を許したまはす。これによりて 最澄大師表を上たまふ。其詞曰。晋末法顯。度流沙而求法。唐初玄奘。踰葱嶺以尋 師。並皆不限年數。授受惟期。是以。熟習方言。博傳法藏。唯最澄。此度求法。往復有期。 又所求法文。卷過數百。歴問諸州。希遭其人。況最澄未學唐言。亦暗譯語。忽入異域。 難述意緒。竊見沙彌義眞。少壯聰悟。頗渉經論。早習漢音。粗知唐語。天恩差義眞。爲 求法譯語。不啻是行頼之。兼令彼學知諸制可とそ奏したまひける。依之。義眞和 尚を同船したまふ事をは允許したまふといへとも。猶最澄大師のひさしく 在唐留學したまふ事は勅免なし。かくて最澄大師金峰山に詣て入唐求法恙 なく。歸航たいらかならん事を祈たまふに。權現の詫宣に曰。此事我力にはお よひかたし。三輪の明神に祈るへしと(云云)。これによりて又三輪に詣て懇祈し たまふに。杉むらの中よりあやしき光三つ玉のとくにてとひ出。たちまちに 最澄大師のいたたきの上に住す。信心肝に銘し。心願成就のしるしなりと喜 たまひて下向したまふに。彼光さきに立て飛行東坂本の神祠にととまりぬ。 P:付077 大師ふしきにおほしめし。彌信敬の誠を抽たまふ。しかれは則三輪の明神と 日吉山王權現とは一體の御神なりと申事かかる神力を現したまふより事 起れり。しかしよりこのかた。鎭に圓宗の佛法を守護し。國家泰平を擁護まし ます事誠にありかたき神徳なるへし。 傳教大師傳卷上終。 P:付078 傳教大師傳卷下。 かくて延暦二十二年癸未三月に遣唐使を立らるへしとて。遣唐大使參議左大 辨從四位上兼越前守藤原朝臣葛野麿。副使從五位上石川道益。判官正六位上 菅清公。録事朝野鹿取をめしておほみきをたまひ御衣黄金をたまふ差あり。 天皇の御歌にこのさけはおほにはあらすたいらかにかへりきませと祝ひ たるさけ。葛野磨なみたあめのことくおとして。かたしけなくかしこまり申 さる。則節刀をたまはりて退出す。同月十四日攝州難波の浦より船に乘。同十 六日に船出して押出し侍る所に。暴に風吹來降雨車軸のことし。水主梶取お とろきあわてて碇をおろし石をしつむるゆへしはしは船しつまりぬ。かか る所に未の刻はかりに俄に風かわりて。終に船破艘しけれは。明經博士大學 助教豐はしめとしておほれ死する人數をしらす。これによりて葛野磨表 を上て此由を奏聞し。節刀をも返したてまつらる。しかうて翌年延暦二十三 歳甲申三月に又葛野磨道益等をめして。おほみき寶琴をたまはり節刀を授 たまひて遣唐使に立らる。爰に空海和尚(弘法大師也)求法の心さしましまして。勅 P:付079 をうけ葛野磨に同船して入唐したまふ。扨最澄大師は本より入唐請益の勅 命をかうふりたまへは。去年三月に第二の船(遣唐使の船四艘あり。菅清公第二船乘れり)に乘。まつ筑 紫に到りたまひて四船たいらかに唐朝に着岸せん事を祈たまふとて。藥師 如來の尊像四躯(高六尺)手つから彫刻し。太宰府竈門山寺に安置し。亦法華涅槃 華嚴金光明等の諸大乘經を講讚したまふ。かくてことし秋七月。管清公の船 に乘りて滄海はるかに浮みたまふ。一帆風にまかせて行たまふに。大風俄に吹 來て黒雲むらがり。碧浪うつまきて。御船すてにあやうかりける時。大師一心 に三寶を歸命したまいて。佛舍利一粒を海中にしつめたへは。龍神これを 納受やありけん。波平に風靜まりて。御船すみやかに明州の津に着にけり。于 時大唐徳宗皇帝の御宇貞元二十年九月朔日也。則船よりおりたまひて。遣唐使 にいとまこい。明州の府牒を得て天台山に登りたまへは。國清寺より僧徒出 むかひて萬里の風波を凌て求法したまふ事を感歎し旅勞を慰め奉る。最澄 大師山中を周覽し聖跡を巡禮したまふ所に。けにも山海の環富を窮め人神 の壯麗を盡して。朱闕玲瓏として林間にそはたち。法皷のひひき琅琅たり。玉 堂陰映として高隅にかかやき。衆音のかほり芬馥たり。石橋虹のことくまた P:付080 かり。飛瀧布のことくかかりて。神仙の窟宅する所。玄聖の遊化する所とは誠 にかかる地なるへしと。一一めくりて見たまふに。智者大師遺跡依然として いますかことくなれは。感涙そそろに袖をうるほしたまふ。其折しも。台州の 刺史陸淳の請によりて。天台山修禪寺の座主道邃和尚(天台大師七代正弟也)。台州龍興縣 極樂淨士院において摩訶止觀を説たまふ折からなれは。陸淳則最澄大師に 謁て。深求法の志を感歎し種種に慰勞す。扨道邃和尚に謁たまへは。其法器な る事をよろこひ。師資相承の奧義。一心三觀一念三千の深旨。底をつくしてこ れを傳付し。又圓頓菩薩の三聚淨戒を授たまふ。大師喜踊にたへすこれを受 得し。それより亦佛隴寺の行滿和尚に謁したまふ。座主語りたまはく。むかし 天台智者大師。諸弟子に告たまふは。我滅後二百餘歳をすきて。東方の國に初 て我法を興隆すへしと。智者大師の懸記にたかはす。此人來れる事甚ふしき なりとて。血脈相承の奧懷をつたへ。並に經論聖教をあたへたまふ。扨又智者 大師。此法藏に鎖をさして鎰を虚空にむかつて投たまふに。鎰則雲に入て落 る所をしらす。それより此かた。此法藏を開人なしと宣は。最澄大師腰より八 舌の鎰を取出し。これはわれ日本日技山の根本中堂を建立せんとて地を引 P:付081 せける時土中より出たる鎰也。若此鎰合事もやとて鎖をあけたまへは。符合 して法藏の扉たちまちひらきぬ。座主をはしめ山中の僧徒。これを見て大に おとろきあやしみて。ひとへに智者大師の再誕とあかめたうたみ奉る。しか れは法藏の金匱玉版悉其祕奧をつたへ。座主と大師と師資の芳契淺からす。 共に龍華三會の砌に再會せんと約諾し。それより越府の龍興寺におもむき。 靈巖寺の大徳。内供奉順曉阿闍梨に逢ひたまふ。此阿闍梨は。善無畏三藏の御 弟子。新羅國の義林大師より胎藏界を受法し。不空三藏より金剛界を傳受し たまひて鎭國道場にいます一時の明哲なり。然則。最澄大師此阿闍梨にした かつて。胎藏金剛兩部の大法を傳受し。入壇灌頂をつとめ給ふ。其外。壽州草堂 寺の大素比丘。明州之檀那行者江祕。開元寺の靈光和上。國清寺の惟象等に逢 たまひて。雜曼荼羅の祕決をうけ。顯密の奧義を究め。且亦。沙門★然に北宗一 派の禪要をつたへたまふ。猶在唐留學の御心さしましましけれは。桓武帝其 才をおしみたまひて。一とせをかきりて歸朝あるへきよしかねて詔をくた したまへは。ちからなく。大唐の貞元二十一年乙酉五月中旬に遣唐大使賀能(葛野 磨一名賀能)にともない。第一の船に乘て洋洋たる溟海にうかひ明州の津を押出 P:付082 したまふ。誠に三寶諸天擁護の力をやそへたまひけん。御船とふかことくに して。同年六月に本朝の對馬國下縣郡に着たまふ。則延暦二十四年也。八月三日 帝最澄大師をめして。禁闕において懺法を修し。讀經せしめたまふ。其折ふし。 表を上て。將來の經論道具を獻したまふ。其表に曰。最澄言。竊以六爻探頤猶局 生滅之郷。百物正名。未渉眞如之境。豈若隨他權教之開三乘機路。隨自實教之示 一乘道場哉。然則。妙法難傳。流其法者聖帝。圓教難説。演其理者天台。伏唯。陛下出 震承圖。登極膺運。東夷之嚮化。歸徳於先年。北蕃之來朝。賀正於毎歳。於是。萬機之 暇。一乘惟懷。冀得圓宗。垂爲大訓。由斯。妙圓極教。應聖代而流傳。祕密眞宗。感皇縁 而格止。最澄。奉使求法。遠蹈靈蹤。台嶺越疆。躬寫教迹。所獲經論疏記。二百三十餘 部。並五百卷。又金字法華。金剛般若等經。智者大師禪鎭。白角如意等。隨表奉進。不 任誠懇戰慄之至。奉表以聞とそ奏したまいける(表文日本後紀與大師別傳聊有異今暫依國史)。帝叡感 ましまして。傳來の天台の典籍を天下に流布すへきよしを勅したまひ。又和 氣の弘世に勅して。禁中の上紙をもつて將來の經論七通をうつさしめて。南 都の七大寺にくたしたまふ。しかのみならす。道證。守遵。修圓。勤操。慈蘊。慈寛等 の碩徳に勅して。野寺の天台院(或説云今東福寺の大慈庵は其舊跡也云云)において。將來の天台之教 P:付083 典を受學せしめたまふ。又和氣の弘世に勅したまはく。眞言祕教。未傳此方。最 澄阿闍梨。幸得此法。立爲國師とそ詔したまひける。同年九月朔日。勅命をもつ て清瀧の峰高雄山に道場をたて。都會の大壇を築て。灌頂三摩耶をとりおこ ないたまふ。すなはち諸寺の智行兼そなへたる僧徒道證。修圓。勤操。正能。延秀。 廣圓等。同頂受僧八人なり。小野朝臣峰守勅をうけたまはりて。法事を奉行し。 又和氣弘世に命して。法會の莊嚴調度並に資財用途まて悉官庫よりこれを おくられけれは。高雄の山中たちまちに九重の禁庭にことならす。これ本朝 灌頂のはしめなり。同月十六日に。禁闕に壇を建て最澄大師に勅して毘盧遮 那の法を修せしめたまふ。殿上において御修法をおこなはるる事これはし めなり。しかしよりこのかた。顯密の宗風ふき募ていとと叡信をかたふけた まふ。されは北畠准后親房卿の記にも。唐國みたれしより。經教おほくうせぬ。 道邃より四にあたれる義寂と云人まて唯觀心をつたへて宗義をあきら むる事たえにけるにや。呉越の忠懿王此宗のをとろへぬる事をなけきて。使 者十人をさして我朝にをくり教典を求しむ。悉うつしをはりて歸ぬ。義寂こ れを見あきらめて更に此宗を再興す。もろこしには五代の中。後唐の末さま P:付084 なりけれは。我朝には朱雀天皇の御代にやあたりけん。日本より返しわたし たる宗なれは此國の天台宗はかへりて本となれるなり。凡傳教彼宗の祕密 を傳へられたることも。悉一宗の論疏をうつし國に歸る事も。異國の書に見 へたり(佛祖統紀にあり)。比叡山には。顯密ならひて紹隆す。殊に天子本命の道場を建 て御願を祈地なり。又根本中堂を止觀院といふ。法華の經文につき。天台の宗 義により。かたかた鎭護の深義ありとそと記さる公家の記尤信用するにた れり。延暦二十五年丙戌正月三日表を上て新に天台法華宗を立。年分度者を乞。 又南都の六宗の内。法相三論は盛なりといへとも。華嚴律宗成實倶舍の學お とろへてなきかことくなれは。最澄大師。表を上て年分度者を乞たまふ。これ によりて天台宗に二人。華嚴宗に二人。律宗に二人。三論宗三人(加成實宗)。法相宗三 人(加倶舍宗)。毎歳の度者を勅許まします。しかれは勝虞常騰如寶修哲永忠等の諸 大徳。表を上てこれを慶賀す(東國高僧傳に此事を讚て大公之心。日月不能老と記す非敢過言)。五十一代平城天皇 大同五年庚寅正月。禁中にて金光明會をおこなわる。則天台法華の年分度者 八人出家す。これより年年の度者たゆる事なし。山門もとは樹木はへしけり て日の光もさなから木末より出ることくなれは日枝の山とかけり。弘仁元 P:付085 年に勅命ありて比叡とあらためらる。是則桓武天皇と傳教大師。御心をひと つにして建立まします山なれは。叡慮に比並するの意にてかくは名付たま ふなるへし。しかるに此事皇葉記には比叡の神の神號によりて名付のよし しるさる。これ又舊事記によりて記せらるれは尤其義なきにしもあらされ と。まさしく淨刹結界章と申記に見へたれは。敢て山僧のわたくしにあらす。 しかのみならす。從五位上行式部少輔藤原朝臣常嗣。登叡山謁澄上人詩に(出經 國集卷十)。城東一岑聳。獨負叡山名。貝葉上方界。梵香鷲嶺城。甑喰藜★熟。臼★練砂成。 輕梵窓中曙。疎鐘枕上清。桐蕉秋露色。鷄犬冷雲聲。高★丹丘地。方知南嶽晴。と賦 せらる。ひとり負叡山の名と作れる心。尤叡慮に比するの稱美の句なるへし。 されは官家の人常に登臨して詩賦を製し。山中幽閑の氣味を甘侍る。左衞門 權佐從五位上守左少辨笠朝巨仲守冬日過山門誌に(同集戴之)。香刹青雲外。虚廊絶 岸傾。水清塵躅斷。風靜梵音明。古石苔爲席。新房菴作名。森然蘿樹下。獨聞暮鐘聲。 亦藤原通憲。春日遊天台山詩に(出無題詩集)。一辭京洛登台嶽。境僻路深隔俗塵。嶺檜 風高多學雨。巖華雪閉未知春。琴詩酒興暫抛處。空假中觀閑念辰。紙閣燈前何所 聽。老僧振錫似應眞とそ賦せられける。誠に山洞幽邃の體意味深長におほへ P:付086 侍る。其外數篇あれと限なけれはこれをもらしつ。同年の春。一乘止觀院にお いて三部長講を修せらる。ある夜西の林のかたに法華經を誦する聲あり。大 あやしみてこれをたつねたまふに。聲のみ聞へて人なし。かくのことく二 三夜におよへは。能能これをもとめたまふに。聲地の底にきこゆ。彌あやしみ て土を掘て見たまへは。朽たる頭ひとつありけるか。舌紅蓮のことくにて少 もくちす。經之聲は此舌よりそ出にける。大師曰われ此山をひらきて一宗を 建立す。しかるに法音自然にいつ。不退轉の法場ここをさつて何方にかもと めん。豈よろこはしからすやと。則かの林をひらきて一堂を建立し法華三昧 の法をおこない。件のかうへをは堂のかたはらにうつみ。人をしてふましめ たまはす。東塔の法華堂これなり。弘仁九年に又常行堂を建立し。常行三昧を 修せしむ。仁壽三年に慈覺大師引聲の彌陀念佛を修し。貞觀七年八月十一日 に相應和尚。慈覺大師の遺告によりて不斷念佛を此堂にておこなはる。され は此引聲の念佛を聞て前大僧正忠源。夜もすからにしにこころの引聲にさ そふ嵐の音そ身にしむ。と詠したまふよし玉葉集なん。見へ侍る。或時最澄大 師。五言一律を賦して。奉獻朝廷たまふ(大師本韻未見之不堪渇慕耳)。嵯峨皇帝叡感ましまし P:付087 て。則賜御和金韻(出文華秀麗集)。遠傳南岳教。夏久老天台。杖錫凌溟海。躡虚歴蓬莱。朝家 無英俊。法侶隱賢才。形體風塵隔。威儀律範開。祖肩臨江上。洗足踏巖隈。梵語翻經 閣。鐘聲聽香臺。經行人事少。宴座歳華催。羽客觀講席。山精供茶杯。深房春不暖。花 雨自然來。頼有護持力。定知絶輪迴。とそ製したまひける。御詩の體勢は申も更 なり。祖徳を稱美ましますの御句。誠に日月に光を爭なるへし。弘仁四年癸巳。 最澄大師御とし四十八歳にして。正月八日依勅命天下泰平玉體安穩の護持 の御爲に禁闕に壇をたてて一七日修法したまふ。後七日の法の濫觴これな り。是則無垢淨光延命經によりてこれを修せらる。其後二十餘年を經て仁明天 皇の御宇。承和元年甲寅十一月に弘法大師奏聞ありて修行したまふ。それよ り東寺の長者には傳り侍る。弘仁五年甲午。最澄大師そのかみ入唐の時の心 願をはたし遂と思召。筑紫の宇佐八幡に詣たまひて。白檀の千手觀音像一體 (高五尺)を彫刻し。其外大般若經二部(千二百卷)。法華經一千部(八千卷)を書寫し。又法華八 講の法會を修せらる。八幡大菩薩あらたに詫宣したまはく。われ法音をきか すしてとしひさし。今幸に聖人に逢て無上の法施をうけたり。何をもつてか これを報せん。所持の法衣あり。これを聖人に奉らんとてみつから寶殿をひ P:付088 らき。紫の袈裟(一衣)同ころも(一領)を大師にさつけたまふ。大師信咸肝に銘したま ふ。神宮等これをみてかくのこときの事いまたみすきかすとあやしみけり。 又賀春の神宮寺にして講經してまへは。忽神殿の上に紫雲たなひきて見へ けれは。村南村北の貴賤老若此瑞雲におとろき法會に詣てきたりてたうと み恭敬せり。弘仁五年主上禁闕にをゐて天台法華宗の奧義を議論せしむ。諸 宗の僧徒これを詰難するにあへて滯たまふ事なく。大師の詞辨泉のわくか ことくなれは。宗風民草まてもふさしめて。いとと叡信をそましたまひける。 同年乙未。本願によりて上野下野兩國に下向ましまして。二千部の法華經を 書寫しておのおの一基の寶塔を建てこれを安置したまふ。凡日本國中に六 所の塔姿とて東國に二ヶ所。西國に二ヶ所中國に二ヶ所これをたてたまふ。 東國は上野下野これなり。西國は筑前豐前にあり。大師の在世に立たまふの いとまなくて滅後に是を造立す。中國は山城近江なり。山城は西塔院これな り。これも大師の在世に其地を點定したまへ共建立のいとまなく。寶塔は滅 後に圓澄座主これを造立したまふ。近江は東塔院の寶塔これなり。これは延 暦二十五年に桓武天皇の勅命によりてこれを造立したまふといへ共事のゆ P:付089 へありて日數をおくり其功いまたをはらさる内大師遷化ましましぬ。其後 弘仁十四年の春諸弟子力をあはせて造立事をはりぬ。弘仁九年戊戌小乘戒 を捨て大乘圓頓の戒を護持すへきよしを奏聞したまふ。帝これを南都の僧 統にたつねたまふに。南都の六宗頻にこれをさまたく。これによりて同十年 己亥顯戒論三卷を製作して一一にこれを對破し。小乘戒の外に菩薩の大戒 あるへき事を述作したまふ。同十三年壬寅二月十四日。天皇宸翰を染たまひ て傳燈大法師位の位記を賜ふ。卯月の比。やや風痺をうれひて病床に臥たま ふ。折しも。一首の詩を賦して懷を述たまふ(此詩亦不傳世遺憾甚耳)。此詩遙に達天聽せし かは御製の聖和を賜。和澄公臥病述懷之作(出文華秀麗集)。聞公雲峰裏。臥病欲契眞。對 境知皆幻。觀空厭此身。栢暗禪庭寂。花明梵宇春。莫嫌應化久。爲濟夢中人。亦從五 位上行信濃守仲雄王の和韻に。古寺北林下。高僧毛骨清。天台蘿月思。佛隴白雲 情。院靜芭蕉色。廊虚梵鐘聲。臥痾如入定。山鳥獨來鳴。亦從五位上巨勢識人の和 韻に。五師山上寺。託病臥雲烟。猿鳥狎梵宇。鬼神護法筵。澗花當佛咲。峰月向僧懸。 已覺非貞有。觀身自得痊。かくて澄大師は餘算のひさしかるましき事をさと りて。あらかしめ山門の制戒を定めたまふ。同年五月十五日付屬の詞に云。 P:付090 最澄心形久勞して一生此に窮ぬ。天台一宗先帝の公驗によりて前入唐天台 受法の沙門義眞に授訖ぬ。自今已後一家の學生等。一事以上違背する事を得 されと(云云)。弘仁十三年壬寅六月四日辰刻。釋尊入涅槃の儀式にしたかひて頭 北面西右脇に臥して怡然として圓寂したまふ春秋五十六歳にそならせた まひける。其折しも法弟門徒の愁傷悲歎誠に釋迦如來二月中の五日娑羅雙 樹の下跋提河のほとりにて。涅槃の雲にかくれましまししかは菩薩聲聞を はしめ五十二類血のなみたにむせひしもかくやありけんとおしはからる。 あやしき雲一村叡嶽の上にたなひきしかは湖東の諸人これをみて奇異の 思ひをなしけるか。大師の遷化を聞てみな父母におくれたる心ちしてかな しみあへり。其後遺告にまかせて全身を淨土院におさめ奉り。山中の諸徒追 福を修す。同月十一日は初七日にあたりけれは。主上かたしけなくも追慕ま しまして。右大臣藤原の冬嗣公を勅使として大師年來望みたまひし圓頓大 戒を山門にて執おこない戒壇を建へきのよし勅許の詔書を降さる。大師い かはかりかよろこひたまふらんとそおほへ侍る。同十一月主上みつから追 悼の御詩を賦せられしかは。一時の公卿才人みなこれを和したまふ。王臣の P:付091 尊敬かくのことし。彼御製に曰。哭澄上人。呼嗟雙樹下。掎化契如如。惠遠名猶駐。 支生業已虚。草深薪廟塔。松掩舊禪居。燈烈殘空座。香煙繞像爐。蒼生稍集少。緇侶 律儀疎。法燈何久住。塵心傷有餘。弘仁十三年十月十七日とあそはしける。勅 使從五位下圖書助藤原の常永登山して淨土院の廟前にこれを供ふ誡に難 有ためしなるへし。五十六代清和天皇の御宇貞觀八年七月十七日傳教大師 の諡號を賜ふ宣命に云。天台本師傳燈大法師位最澄。右可贈法印大和尚位號 傳教大師。勅道高者光榮自遠。徳盛者號諡必彰。舊章攸存。眞俗未異。故天台本師 最澄。遠渉重溟。深求一乘。引慈雲於西極。注法雨於東岳。世初知波利之平路。人誰 着嬌奢之美衣。雖滅度年深。遙聞虚空之墮涙。尚興隆日就。近見景葉之楊輝。既篤 渇注之誠。空何追崇之典。宜贈法印大和尚位仍諡號傳教大師。可依前件主者施 行。貞觀八年七月十二日とそ勅宣ましましける。すなわち勅使少納言良峰朝 臣經世登山して淨土院の廟にてこれを讀たまへは。廟中より諸法從本來。常 自寂滅相と唱へたまふ。これすなはち入滅已後二十四年にそなり侍る。しかれ 共精心靈妙にして寂然不動なれは。非滅現滅のことはりを示したまふにや ふしきなりし事ともなり。門徒の明哲數百人の中に秀逸なる人二十餘人。殊に P:付092 俊傑なるは義眞和尚。圓澄和尚。光定和尚。慈覺大師。智證大師也。又一時公卿名 を得たる人人。皆大師の徳に歸し尊敬の誠をつくしたまふ。所謂右大臣藤原 冬嗣公。大中大夫伴國道卿。國子祭酒和氣弘世卿。朝請太夫和氣眞綱。主殿助永 雄等數十人。或は外護となり或は芝蘭のましはりをなし。道をたつとみ法を うけて皆來際の縁をむすひたまふ。其外結縁の緇素貴賤枚擧するにいとま あらす。就中正三位行中納言兼右近衞大將春宮大夫良峰朝臣安世郷は。遠登 山廟拜影像一首の詩を賦したまふ(比詩亦出經國集十)。登延暦寺拜澄和尚像一首良 安世。溟海占杯路。天台求法輪。芳蹤踞冠國。應化不留身。道與乾坤遠。徳將日月均。 鑢煙猶似昔。形像正疑眞。定室苔封砌。禪房雲是隣。登攀青黛裏。拜頂暮鐘辰とそ 賦したまふ。凡此朝臣は桓武天皇の第二十一の御子として平城嵯峨淳和の帝 の御連枝にてましませはやんことなき御身のかく追募ましまして影像を 頂禮したまふ事ひとへに皇眷の淺からさる餘慶道徳の甚深なるゆへなり。 凡大師在世の日製作の書十九部八十卷也。いつれも圓頓一實の智玉をみか き。界如三千の理水すみぬれは。諸宗もつて龜鏡とす。されは。もろこしの鄭審 則は最澄闍梨。性禀生知之才。來自禮義之國。萬里求法。視險若夷。不憚艱勞。神力 P:付093 保護。南登天台之嶺。西泛鏡湖之水。窮智者之法門。探灌頂之神祕(云云)。又陸淳公は 最澄闍梨。形雖異域。性實同源。特禀生知。觸類懸解。遠求天台妙旨。又遇龍邃公。 惣萬行於一心。了殊途於三觀。親承祕密理。名言(云云)。大師の徳行もろこしの才 子賢者もかく稱歎し侍る。其事功行跡山よりもたかく海よりもふかし。いか てかおろかの筆これを記しつくし侍らん。今唯九牛か一毛を註し侍る。これ 則他のもとめのいなみかたさにおのか固陋をわするるものならし。 B:覺深識語  或人一日來詣于山房。需以和字記三大師傳。(余)以不才雖固辭之。不敢允許焉。故  漫翻轉舊傳古記之文。以塞是責望矣。然於傳教大師傳末。更附録在唐決及廟讚  等。以顯揚祖徳焉。願以此功徳。信者與毀者。同到清涼池。共登蓮華臺而已。   元祿改元年明年屠維大荒落孟夏之吉(1688)。            台嶺楞嚴院鷄足蘭若沙門法印大僧都覺深講識。 B:傳全奧書   編者云。本書卷末別有傳教大師傳附録數章。今省之。 [傳教大師傳 終]。